(その10)3月、二人は病院で(2)

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(その10)3月、二人は病院で(2)

「絶対にむりってわけじゃないと、常盤先生もおっしゃっていた。これからも妊活、がんばろう」 「……はい。でも、今はただショックで。先生の赤ちゃん、欲しかったのに。せ、先生も、赤ちゃん、ほ、欲しいって、い、言ってくれたのに……っ」  ぽろぽろと涙がこぼれる。周囲にひしめきあって座る患者たちの視線を気にする余裕もない。必死で拭うものの、ひとしきり涙がこぼれた。  南條がハンカチで涙を拭ってくれた。巽は夫にもたれかかる。南條は覆いかぶさるように、巽の体をかばって抱いた。しゃくりあげ、巽はなんとか泣きやもうとがんばった。それでも口から出るのは嗚咽と、自分自身を恨む言葉だ。 「ふ、ふぐ……。ご、ごめんね、先生。お、おれのせいで。おれのせいで、赤ちゃん、できなくて」 「君のせいじゃない。おれは、一生君と二人きりでもいい。そう思ってる」  そのとき、巽の鼻腔に蜂蜜の香りが触れた。南條のフェロモンの香り。先生の香りはおれが寂しいときにひときわ強くなると、巽は思う。夫にしがみついて、涙を拭った。 「ん、ありがとう、先生。妊活は続けましょう。それから、二人で生きていく喜びを、これからもっともっと見つけていきましょう。おれも先生といっしょにいられれば、それでいい」  そうか、と先生は言って、巽の額にキスを落とした。人前でそんなことをしているので、周囲の目は好奇に近い。巽は恥ずかしかったが、南條は気にしていないらしかった。  それから会計を済ませた後、二人で並んでJR三ノ宮駅の近くのファッションビルへと向かった。寂しい気持ちを吹き飛ばそうと、ウィンドウショッピングを提案したのは巽だ。  今日は冷える。だが、空は澄み切って晴れていた。青空が眩しい。  巽は先生と手を繋いで、繁華街でまっすぐに道路と交差する横断歩道を渡りながら、ふと思う。言ってみる。 「あのね、先生。ここしばらく、先生も子どもが欲しいって言ってくれて、二人で妊活をがんばったよね?」 「ん? そうだな」 「楽しい夢を見せてくれてありがとうございました」  巽が頭を下げ、もう一度上げたとき、先生の目には涙が宿っていた。巽の手をぎゅっと握って、 「こちらこそ」  と笑った。  もうそれだけで、よかった。巽にとっては、それだけでよかったのだ。
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