(その11)5月、可愛いものを持って(1)

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(その11)5月、可愛いものを持って(1)

 巽は、塞ぎがちだった。  妊娠できない体質であると医師から聞かされ、絶望し、自分を恨んだ。それでも夫、南條がいっしょにどん底まで落ちてくれたことで、なんとか這いつくばってでも、現世に留まれた。そんな気持ちだった。前向きになろうとあがいた。南條はいつもと変わらず魂に沁みるほど優しくて、ふだんはクールなハム太くんも、いつも以上に優しかった。 (むりして前向きになろうとしなくていいんだよ、巽)  そう言ってくれるハム太くんを抱え、巽は先生の胸でひとしきり泣いた。  今では少しずつ気持ちも落ち着き、巽はまた少しずつ、元の生活に戻っていった。ただ、完璧に元のようにではない。そこには欠落がある。空虚に蝕まれ、巽はよく風呂の中でぼんやりしていた。風呂の中が、彼の唯一泣ける場所だった。  南條は、そのことになんとなく気づいていたのだろう。巽が入浴を済ませてリビングに戻ってくると、黙って妻を抱きしめるようになった。  寄り添って、二人は静かにベランダの窓から闇に潜る六甲山を眺めた。  そんなある日、巽は日中に一人でデパートに行った。  夜。 「おれにお土産?」  風呂上がり、ビールで晩酌していた南條を前に、同じく風呂上がりの巽がにこにことラッピングされた袋を手渡す。 「うん! 先生にどうかなって。開けてみて」 「ありがとう。なんだろうな」  うれしそうな南條の顔に、巽もさらににこにこ。先生、気に入ってくれるかなあ、と胸の中はそわそわドキドキだ。 「お、箱が出てきた」  つぶやきながら、南條が箱を取り出す。パンダやネコ、ウサギやカメ、ヒョウやサルなど、色鉛筆を使った優しい筆致で、ポップでカラフルな動物たちが描かれていた。 「可愛い箱だな」  箱を回して眺め、感心の顔の南條に、巽は身を乗り出す。 「中身はもっと可愛いんだよ! 可愛いと思う!」 「へえ? 可愛いって、いったい中にはなにが……」  そこで、くるくると丸められて収まったものを取り出した南條は、絶句した。  中身は深いブルーの地に、ジャンガリアンハムスターの刺繍が等間隔に並んだネクタイだったのだ。ハムスターはこっちを向いてヒマワリの種を齧っていたり、丸まっていたり、ポーズはさまざまだ。 「見て、先生! これ、『プリケツ』を向けてる柄もあるの!」  きゃっきゃっとはしゃいで巽。たしかにプリッとしたハム尻をこちらに向け、はにかんでいる柄まであった。  沈黙する南條に、巽は少し慌て始めた。先生の顔を覗きこみ、 「せ、先生……? か、可愛すぎた?」  南條はハッと顔を上げると、ネクタイを自分のTシャツの胸元に宛がって、 「え、えっと……。鏡、は……」  腰を上げようとした夫を制し、巽は卓上ミラーを取りに走る。先生の前にかざすと、南條は真剣な表情で鏡を見つめた。
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