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(番外編)サイン会で(3)
その後無事にサインしてもらい、巽と南條は自宅の最寄駅のカフェで一服していた。二人とも新刊をゲットでき、サインももらって、憧れの作家と話ができた。心ほこほこである。「今日は本当によかったな」「本、大事にしようね!」とご機嫌だ。
そのとき、柱を隔てて、隣の席に二人組が座ったことに巽は気がついた。声が聞こえてくる。
「あー、腱鞘炎になりそうだよ、せいちゃん」
「普段はずっとパソコンですからね。湿布、買ってきましょうか?」
「それより塗り薬がいいな。おれは、塗り薬派。せいちゃんこそ慣れない眼鏡、疲れなかったか?」
「そうでもないです。掛けてよかったですよ。多少は目のキツさが抑えられますから。伊達眼鏡、侮れませんね」
他愛ない会話だが、声と内容でわかった。坂木先生と、あの青年だ。巽と南條は顔を見合わせる。カフェは土曜日とあり、なかなかの混み具合。坂木と青年はこの席しか手近なところがなかったのだろう。
「……どうしよう、ご挨拶とかしたほうがいいのかなぁ?」
巽がそわそわしながら夫に問えば、南條は考え込んで、
「しかしプライベートでお声がけするのも……」
二人は悩んでしまった。その間、坂木と青年は他愛ない話を続けていたが、青年のほうがふとこう言うのが聞こえてきた。
「サイン会、南條先生とオメガの奥さんが来てましたね」
「そうだな」
「……『バース性』界隈って、いいなって思うんですよね。『同性愛』っていう概念がないから」
「バース性」の人間は――特にアルファとオメガは性別に関係なく番えるため、元々「同性愛」 という概念や、タブー意識が希薄だ。バース性ではない人間たちからも、「そういうもの」と認識されていて、例え同性同士のカップルでも、奇異に見られることは少なかった。
(とはいえ差別感情を持つ人間はどこにでもいるもので、「バース性の人間って、同性愛がフツーなの、キモチワルイ」と陰口を叩かれることも、常にあったが)
青年は続ける。静かに、淡々と。
「もしおれがオメガで、先生がアルファだったら、おれも先生と、堂々と――」
そこで言葉が途切れた。聞こえてくる坂木の、のんびりした声。
「おれはアルファって柄じゃない。美男子で、なんでもできるせいちゃんがアルファっぽいよ」
「掘ってもいいと?」
「むう、それは勘弁」
ひとしきり和やかに笑う二人。坂木が言った。
「おれがどうであっても、せいちゃんがどうであっても、おれは、それでいいからな」
「……はい」
青年の声は、かすかに震えていた。
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