(その21)9月、ドキドキの夜

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(その21)9月、ドキドキの夜

 残暑厳しい九月の午後十一時二十分過ぎ。 「せ、先生……もう寝る?」  読みかけの『オメガ支援概論』という専門書を手に、寝室に入ろうとした南條は、巽の声に振り向いた。巽は青白い顔で、大変心細そうに立っている。まるで幽霊だ。両腕に、しっかりとハム太くんを抱いていた。驚いた先生が、巽の額にそっと手を押し当てる。 「どうした? 具合、悪いのか?」 「ううん。……もう寝る?」 「ああ。読みかけの本を読みながら、そろそろ寝ようと思う」 「おれも寝る! いっしょに」 「まだ十二時にもなってないぞ。宵っ張りの君が珍しい。やっぱり具合が……」  巽は先生に抱きつくと、「こ、怖い話を読んだから」と消え入りそうな声でつぶやいた。南條は目を瞬く。 「怖い話? そういえば、風呂からあがってスマホに没頭してたな。 ……とにかく、中に入ろうか」 「せ、先生が先に入って」  うなずいた南條は先に寝室に入り、電気をつけた。巽がぴったりと、影のようにくっついてくる。二人は寝室に入ると、南條が左側からキングサイズのベッドの中に入り、巽が右側から同じく先生の隣に入った。  巽はまたまたぴったりと先生にくっつく。逞しい腕に顔を埋め、もう周りの景色を見たくない、というかんじだ。 「ネ、ネットで怖い話を読んじゃって。怖すぎるから、お、おれももう寝る!」  南條は真剣な顔で話を聞いている。うなずいて、巽の体にタオルケットを掛けた。それから、エアコンの冷房を入れる。 「そうだな。寝て、忘れるのがいちばんいいよ。……だから、いつも持っているスマホをリビングに置いてきたのか?」 「怖すぎるから!」  巽が絶叫する。先生はハム太くんをしっかりと自分と巽の間に寝かせると、「おれとハム太くんがそばにいるからな」と声を掛ける。 (そうだよ、巽。先生とぼくがいるから怖くないでしょ?)  先生とハム太くんの言葉に、巽はちょっとだけほっとする。必死で頭の中に居座る「怖い話」を追い払おうとがんばった。  だが、がんばればがんばるほど、思い出してしまう。先生の体にひしっとくっついて、訴えた。 「せ、先生、おれが寝るより先に寝ないでね!」 「ああ、わかった」 「電気、点けてて!」 「了解」 「ハム太くんも、おれより先に寝ちゃだめだからね!」 (わかってるよ、巽)  そこで、やっとほっとした。先生の頬に素早くキスする。 「おやすみ、先生!」  そして目を閉じた。  訪れる静かな時間。まぶたの裏の暗闇に震える。  ――怖い。怖すぎるよ……!  恐る恐る目を開けた巽は、本を読む先生の横顔を見てほっと一安心。彫りの深い横顔がかっこいいなあと見惚れていると、南條が振り向いた。 「どうした? 眠れない?」 「……はい。先生、なにか楽しい話をしてください」  もう一度目を閉じてお願いすると、うーんと言って、先生が手を握ってくれた。巽は必死で握り返す。命綱のような先生の手だ。  南條は話しはじめた。 「今度の日曜日、君さえよければ《海遊館》に行こうと思ってたんだが、どうだ?」 「かいゆうかん?」 「大阪にあるとても大きい水族館だ。ジンベイザメで有名なんだよ。他にもいろんな魚がいるぞ。あと、観覧車もある」  巽は目をぱちっと開けた。その茶色の目が、きらきらと輝いて南條を見つめる。繋いだ手をぎゅっと握り、もう片手でハム太くんを抱き寄せて、 「水族館!? 行きたいです! それに、観覧車も!? おれ、乗りたい!」  大きな声で返事をすると、先生はにこにこと笑った。 「そうか。巽くんは、大阪も初めてだよな?」 「初めて! 電車、乗る? 電車大好きなんです!」 「ああ、知ってる。いっぱい乗るよ」 「うれしい! おれ、水族館もとっても大好き! 観覧車はアニメで観ました。乗るの、夢だった。うれしいです。ありがとう、先生! 大好き」  ぎゅっとハグすると、南條は笑って巽を抱き寄せる。その体の厚みに、熱に、巽はますます満たされる。先生は巽の背中をそっとトントンすると、 「さあ、これがおれの楽しい話だ。眠れそうか?」 「わくわくして眠れそうにない!」 「はは、困ったな」 (もう、巽ったら)  先生とハム太くんに笑われながら、巽はほわほわとした頭で、もう怖い話はどこへやらだ。 「大阪って、どんなところ? あ、海遊館のことは、当日のお楽しみにしておくから訊かないね。日曜日のお昼、なに食べますか?」  そんなことをまくしたててはしゃぎ疲れた巽は、いつの間にか眠ってしまったのだった。
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