第二章 離れがたき愛の底

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 かつて世界は竜のものであった。竜がいるからこそ、世界は豊かだった。  竜が世界を闊歩し、枯れた草木があれば再び緑を萌えさせた。汚れた水があれば浄化し、清らかさを取り戻させた。踏みしめた大地では植物だけではなく生き物も健やかに育った。  竜は世界が世界であるための要。竜が世界と命を育んだ。だから竜は全ての王だった。  けれども、あっという間に繁栄した人間が、知らぬうちに世界を支配していった。  時に奇跡を与えたものの、また時に災害も与えた竜。彼らは人間に追われる前に、自ら世界の隅に身を潜めた。  それが竜の里。竜の力によって美しい自然が作られた場所。  世界の主の座を降りた竜は、長いこと人間と関わりを持たずに暮らしていた。広い世界の隅で、それぞれ小さな楽園を確かに築き、世界を見守っていた。  だがそれも、人間達が争い出すまで。  人間達は、世界の主たる種族になったことに満足しなかった。人間達は自分達の中でも、支配者を目指し、争い始めたのである。  それが戦争。  そして作られたのは、竜の全てを使った兵器。  竜狩りに、竜の里は血に染まった。『戦竜機(せんりゅうき)』に狩られ、『戦竜機』にされる。そしてより里は赤く染まり、ある夜、月すらも赤くなった――。 「ひどい臭いです……死に汚染されてしまっていますね……」  腐臭の渦巻く湖畔に、一頭と一人は降り立った。しばらく言葉を失って辺りを眺めていたが、ついにフェガリヤが顔を歪める。  ――兄の言った通り、かつては美しい場所だったのだろう。  その昔、草木は緑を生い茂らせ、風に歌っていたのだろう。子竜達が、枝から枝へと飛び移りながら羽ばたく練習をしていたのだと、幻を見る。煌めく湖を見れば、魚を追って遊ぶ子竜達の姿がある。それを見守る大人の竜達の足元、花が咲き乱れていた。木々にはあたかも鳥の巣のように枝を組み合わせて作った寝床があり、夜になれば月光が良く照らしていたのだと気付く。うち、一つは卵のためのものだろう、卵守の竜が優しい瞳で孵化を待っている――。  自分の生まれ故郷とは違う環境であるが、よく似た楽園がそこにあったのだと、フェガリヤは瞼を閉じ、そして開く。  けれどもいまあるこの光景の、虚しさ。  ……草木は全て萎れ、枯れていた。土はまるで溶けているかのようにどろりとして、異様な臭いを放っている。けれどもそれ以上に、湖から濁った臭いが放たれていた。粘度のありそうな水は黒々としていて、底は見えない。風もなく、ただ死の臭いだけがどこに行くこともなく漂い、沈殿しているかのように居座っている。  枯れてなお湖を囲む大木は、さながら墓標を思わせた。鳥の巣に似た竜の寝床の跡こそ、太い枝にいくつか残っているものの、その奇妙で巨大な形は、不吉なものを感じさせた。  ――ここは、生き物がいていい場所ではない。 「……『屍竜』によるものですね」  纏わりつくような土を気にしつつ、フェガリヤは辺りを歩いて見回す。どこにも生き物の姿はない。湖にも、魚がいるとは到底思えない。  だが彼女が探しているのは、生き物ではなかった。  『屍竜』。死んだ竜。死してなお、彷徨う竜。  ――月の色が血の色になって以来、竜は死ぬことができなくなった。  厳密に言えば死ぬ。ただ、死しても、その魂が身体から離れなくなってしまった。  魂すらも歪められ利用されているために、身体に深く結びつき、不死身となった『戦竜機』とは、また少し理由が違う。『戦竜機』の魂は、閉じ込められているような形だ。  だから『戦竜機』の「死なない」と『屍竜』の「死ねない」は違う。  では何故、通常の竜の魂が身体から離れられなくなったのかというと――月に異変が起きているからだった。  竜の魂は、本来であれば月に還る。  ……けれどもその月はいま、憎悪で包まれた。それが壁となった。  竜の魂は、還りたくとも、還れなくなってしまったのである。 「ここにいたはずのみんなは『屍竜』になってしまったのかしら……」  再びフェガリヤは辺りを見回すものの、動くものは一つも見つけられない。  ――還る場所を失った魂は、死んだ身体に留まり続け、また動かし続ける。しかし死んでいることに変わりなく、死した竜は徐々に理性を失い、身体は腐っていく。そして生前は命を育み浄化するものであった竜の力が、逆の力となって世界を汚染していくようになった。  『屍竜』とは「死」そのもの。彷徨いながら世界を蝕み、死を振りまくものだった。 「みんな、どこかに行ってしまったのかしら」  やはり竜の形らしきものはどこにも見えない。死により時が止まったような森の中、メサニフティーブも目を凝らし、耳を澄ませるが。 「あるいは暴走した『戦竜機』にやられたか、月が赤くなる前に滅んでいたか……だな」  どちらにせよ、この地が死によって汚染されているのは『屍竜』によるものと見て間違いがなかった。それはフェガリヤにも、メサニフティーヴにもわかっていた。  死に汚染され、草木は滅び、動物も漂う死の空気に冒される。そして本来であれば全ては土に還るはずであるが、その土すらも死んでしまっているために、何も蘇ることはない。  一体どのくらい前から、この土地が死んでいたのかはわからない。  わかることは、このまま何もしなければ、この土地は永遠に死に汚染されたままだということだけだった。 「……力の強い竜ならばと思いましたけれど、やはりだめでしたね」  死が濃く溶け込んだ湖を眺め、つとフェガリヤは口を開く。 「月の光が失われたのです……やはり、竜は生きていられないのでしょう……」  ひどく悲しそうなその声は、どこか子を失った母親を思わせた。  自分の無力さを、痛感しているような弱々しい声。 「……竜が生きていけなくなったのは、お前のせいではない。避けられないことだったのだろう? だからお前が生まれた……悲しいことではあるが、お前は自分を責めるべきではない。お前はできることをしているではないか」  妹の隣に立ち、黒い竜は優しく諭す。そしてふと思いついて、湖の水面に顔を近づけた。 「ここはかつて、美しいと言われた場所だ。それだけは、取り戻せるようにしておこう……ここを愛し、ここで暮らした竜達のためにも」  ――美しい景色を、妹に見せたいという気持ちもあった。  黒い竜は、息を吸い込めば、白く輝く息吹を吐いた。眩しくも優しいその光は、死に染まったこの土地にひどく似合わなかった。けれどもその輝きは水面を撫で、漂う空気をかき混ぜ、散らしていく。  死に冒された大地は戻ることがない。時がその毒と空気を薄めることはなく、人間の手でどうにかできるものでもない。  けれども竜の息吹――竜の力で浄化することはできる。  竜の力の根本は、世界と命を育む力。  だが。 「――おお、なんということだ……私ではかなわないというのか……」  いつもならば、息吹で撫でた水は透き通り、清らかさを取り戻していた。そうしてメサニフティーヴは妹に綺麗な水を与えてきた。だが黒々とした湖は、白い輝きに撫でられても黒々としたまま。粘り気のある水面が波打ってぼこりと嘲った。重々しい空気も晴れることはない。  確かに湖は広く、死が満ちている空間も広かった。そうであっても、少しは変わるはずだと信じていたメサニフティーヴは驚愕し、目を見開く。 「湖が蘇れば、そこからこの森は蘇ることができると思ったのに!」 「それほどに、汚染されているということですね……」  妹は兄の鱗を撫でた。 「こうなっては……もう手の尽くしようがありません……」  しばらくの間、兄妹は途方に暮れて腐った湖のほとりに並んでいた。  やがて空の青色が橙色になり、そこから暗くなったかと思えば不吉な赤色に染まり始める。赤い月が支配する夜がやって来ている。
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