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* * *
肌は白く、どこか壊れやすさを感じさせた。
ひゅうひゅうと、苦しそうに呼吸をしている。震える手が、喉を押さえていた。
固く瞑った目を開こうとはしないものの、長い睫毛は震えていた。
そしてまるで絹のように流れる、銀色の髪。
まるで人形のような存在に、ゲルトはしばらくの間、固まってしまった。特にその美しい髪に惹かれる。薄暗い洞窟の中、外から射し込むわずかな光に、まるで水面のように輝いている。
我に返る。荷物の中から小瓶を取り出す。
この子は毒に冒されている!
街から持ってきた薬は、毒を消し、また毒によって弱った身体を癒すものだった。念のために、と町長がそれぞれに数本配ったのだ。相手は毒ガスを扱う『戦竜機』のようだが、幸いこの街には対応する術がある、と。
「君! 大丈夫か!」
一体何者なのか。そもそも人間なのか。そんなことは、どうでもよくなっていた。
彼女は苦しんでいる。薬を飲ませるため、ゲルトは少女の身体を起こそうとした。
「私の妹に触るな!」
ところが、ひどく敵意に満ちた警告が飛んできて、びくりと動きを止める。
黒い竜の、大きく鋭い双眸が自分を睨んでいた。それは、今にも噛みついてきそうな勢いで。身体を見れば、まだ槍が一本突き刺さっていて、だらだらと血が流れている。しかし深い緑色の瞳は怒りに燃えていた。
「……兄様」
弱々しい声がした。横たわっていた少女が咳き込み、それでも竜に微笑みを向けた。
「兄様、この人、は、悪い人では、なさそうです……そう、感じます……」
少女の瞳は、髪の色と同じく銀色だった。初めて見るようで、しかしどこかで見たことがあるような気がして、ゲルトは息を呑む。
ああ、綺麗な色だ。
「――薬、を」
今度こそ少女の身体を起こせば、黒い竜は何も言ってはこなかった。ただ先程と打って変わって、ひどく心配そうな様子で身を屈め、少女を見下ろす。どこか申し訳なさも纏ったような様子で、もう恐怖は感じられなかった。
ゲルトは少女の唇に小瓶を軽く押しあてると、ゆっくりと傾けた。少しずつ、薬は口の中へ流れていく。空になれば、そっと少女の身体を横に戻した。
少女は耐えるかのように目を瞑り、呼吸に胸を上下させる。やがて瞼を震わせて開けば、確かにゲルトを捉えた。
「ありがとう……ございます……」
「……こ、こちらこそ、さっきは助けてくれてありがとう」
彼女は自分を助けてくれたのだ。襲い来る『戦竜機』から、突き飛ばして守ってくれた。
そして思う――竜の背に誰かがいたのは、見間違いではなかったのだ。
少女が咳き込んだ。思わずゲルトは寄る。竜もより身を屈めて少女の顔を見つめる。だが少女は咳が落ち着けば笑っていた。
「……フェガリヤです。私は、フェガリヤ……」
「……ゲルト。仕立て屋の、ゲルトだ」
と、ずい、と大きな影が近づいてきて、思い出したようにゲルトは身を震え上がらせる――黒い竜が、突然その頭を近づけてきたのだ。
竜の大きさは、普通、といったところだろうか。熊よりもずっと大きい。だが小さな家よりは大きくない。よく絵で見た竜や『戦竜機』と同じくらいの大きさだ。しかしその口は――人の頭を丸かじりできるほど。
「ほう、仕立て屋……確か鱗を狙う者と聞いたことがある……」
竜は目を細める。フェガリヤが繰り返す。
「兄様、この人は、悪い人では、なさそうですって……薬も、譲ってくれましたし……」
言われて竜は更に目を細める。しばらく間を置いた後で、
「……私はメサニフティーヴ。フェガリヤの兄だ」
――そういえば、竜というのはこのように人と同じ言葉を使い、また人と同じく名前のある生き物だと聞いたことがある。
それにしても。
「……兄?」
どう見ても竜と人間である――銀色の髪と瞳を持つフェガリヤが人間であるのかどうか、怪しいところだが。
困惑に思考が鈍る。けれども、ざりざり、と音が聞こえてゲルトは気付いた。
「ええと……メサニフティーヴ? その槍は、刺さりっぱなしじゃない方がいいよな……?」
未だに黒い竜――メサニフティーヴに刺さっていた槍。その柄が洞窟の壁を引っかいていた。
メサニフティーヴは言葉こそ口にしなかったが、槍を見つめて忌々しそうに唸った。だからゲルトは立ち上がり、恐る恐るその槍を握る。少し力を入れると、ぐちゃりと音がして血が溢れた。メサニフティーヴは微動だにしない。ゲルトが更に力を入れて何とか引き抜けば、それには耐えられなかったのだろう、黒い竜は呻き声を上げて身体を震わせた。
槍が抜けた傷口からは血が流れ出る。かつて、竜の血は薬にしたらいい、または燃料にしたらいいと聞いたことがあったが、間違いなく命の赤色だった。
「待ってろ……何とかする……」
槍は太く、傷口も深かった。抜かない方が出血を抑えられたかもしれないが、刺さっていたのは『竜血鉄』の槍。刺さったままでは、竜にとってそれ以上の苦しみを与えるものだ。
ゲルトは鞄からガーゼを取り出してまずは傷口を拭った。別のガーゼを取り出せば傷口に押し当て、続いて包帯を取り出すが、表情を歪める。相手は竜、身体が大きい。一体どうやって包帯を巻くというのか。足りるのか。
「……なあ、生きた竜は『戦竜機』みたいに勝手に怪我が治ったりするのか?」
とりあえずは止血を。傷口に押し当てたガーゼはすでに赤く染まっていた。
「そうであったのなら、我々はこうも数を減らさなかった」
淡々と答えが返ってくる。
槍を抜かない方がよかったのでは――ゲルトの顔は青くなった。
「……『戦竜機』の魂は歪められています。その歪みによって、底なしの力を得ているのです。だから彼らは、どれほどに傷ついても、時間が経てば元通りになるのです」
と、綺麗な声がして、ゲルトは驚いて振り返った。
奇妙なことが起きていた。
「君……毒は……?」
フェガリヤが起き上がっていた。
いくら薬を飲ませたからとはいえ、おかしな話だった。確かに自分の街は、織物と並び薬が優秀だと言われる街だ。だからこそ、毒ガスを扱う敵が相手でも、薬を準備できた。だがあれほどに弱っていたのなら、薬を飲んでも丸一日は自由に動けないはずだった。
そうであるにもかかわらず、フェガリヤはもう何一つ問題はないというように微笑んで立っていた。息は整っていて、頬の血色はよく、辛そうなところは一つもうかがえない。
「薬を頂けたおかげで、思ったよりもずっと早く楽になりました」
ありがとうございます、と彼女は再び口にする。しかし明らかにおかしなことを目前にし、ゲルトは口を開けたままだった。
そしてフェガリヤは、兄だという竜を見上げた。
「さあ、次は兄様の番です」
彼女は兄の前に座り込む。兄が頭を下ろせば、それに抱きついた。
――洞窟の中に、光が生まれる。
それはゲルトが初めて見る光だった。
「竜だって生き物。必要なものがなければ、傷も治りません……竜に必要なのは、この光です」
――それは、優しい輝きだった。
――ぼろぼろの布を纏った少女が、銀色の光を纏っていた。
「――綺麗だ」
人間が光を発している。その事実よりも、光の美しさにゲルトは息を呑む。
優しい光。心地の良い光。洞窟を優しく満たしている。黒い竜の鱗が艶やかに輝く。
よく見れば、鱗はあたかも光を吸収するかのように、照らされるほどに輝いていった。削れてしまった力、硬度を取り戻している。そしてガーゼで押さえ続けている傷口に違和を感じて手を放してみると、その傷口が銀色に輝いていた。光が傷口を包み、治癒していく――。
間違いなく、初めて見る光だった。しかしどうしてか、懐かしいと感じる。どうしてか、見たことがある気がする。
ただその疑問も、心地良さと美しさに薄れていく。
ほどなくして、フェガリヤが深呼吸をした。放っていた光が弱まり、消えていく。洞窟にはしばらくの間、光の残滓が残っていた。
メサニフティーヴが頭を上げる。その身体にもう傷はなく、鱗も剥がれた箇所はなく、艶やかさには曇り一つない。
「今のは……? 君達は、一体……?」
洞窟の入り口からは、赤い光が射し込み始めていた。月が空に昇り始めていた。
彼方からは『戦竜機』の咆哮が聞こえてきていた。
「私達は、兄妹です」
ゲルトの質問に、フェガリヤはまるでお伽噺に出てくる女神のようにふわりと微笑む。
「彷徨う竜を月に導くため、旅をしています」
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