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 蒸し暑かった日中も、夕暮れになっていくぶん気温が下がって楽になり、外回りから汗だくで戻った天橋律を、事務員が待ち構えていたように捕まえて話しかけた。 「天橋さん、この見積り、間違えています! これじゃあ、赤字ですよ。訂正とお客様への謝罪をお願いします」 「え……」  天橋律は、まともな返事もしないで、事務員から見積書を受け取ると中身を読んだ。 「どこが?」  間違いがあると言われても、自分では分からない。  事務員は、「ハアー、そんな簡単なことも分からないんだ」と、ため息を吐くと、客先からの注文書を見せた。 「これを見てください。単価が違うんですよ。この商品は、1ロット、つまり、100個単位で注文が増えるごとに値引き率が上がります。それなのに、この注文書は、80個の注文で100個注文用の単価になっています。原因は、天橋さんの見積書でした」 「でも、お客さんが100個で見積依頼してきたからで……」 「そう言う場合も、99個以下の注文は単価が変わりますって注記しないと。お客様は購買を通しているから、この値段で売れってクレームが来ているんですよ。天橋さんの責任ですから」 「そんなこと、知らなかった」  上司の検印があるのだから、自分一人の責任とは言えないんじゃないかと、天橋律は反発していた。  二人の会話を聞いていた上司が、「いい歳の大人が『知らなかった』なんて言い訳するんじゃない! 商品単価の勉強ぐらいしろ!」と、部内中に響く大声で叱責された。  ここは営業部。いつもどこかの電話が鳴っていて、誰かが電話している騒がしい部署。それが、その時に限って何の音もしなかった。 「……」  上司の見落としもあるのに。  悔しさと恥ずかしさで居たたまれなくなった天橋律は、黙って座ると俯いて手にした見積書を眺めた。  事務員が追ってきた。 「ハアー、ホントにもう……。訂正出来たら見せてくださいよ。確認しますから」 「……」 「なんか言ったらどうですか?」 「……」 「全くもう」  陰気臭くてコミュニケーションも満足に取れない天橋律に、半分怒り半分呆れて、事務員は自席に戻った。  事務員は後輩である。後輩に注意され、自分の書類を確認される屈辱を味わった天橋律は、しばらく頭を上げられなかった。  こんな時に思い浮かぶ顔は、一人しかいない。 (アヤちゃんに会いたいな……)  嫌な事があった日は、彼女の顔を見たくなる。  滅多にないけど、嬉しい事があった日も彼女の顔を見たくなる。  何にもなかった日でも、刺激を求めて彼女の顔を見たくなる。  そうして、毎晩毎晩店に通った。  お金は掛かったけど、彼女の笑顔が見られるなら安いものだと思っていた。  彼女になら、今まで貯めた全財産を使ってもいいと思っていた。  アヤちゃんだけが自分の理解者で応援してくれた。自分の顔を見ると微笑んでくれた。  身近な女は皆、ゴミを見るような目つきで見てくる。  男であっても似たようなものだ。  仲が良くしていた同僚は、とっくに辞めた。  自宅と会社を往復する砂のような毎日だった。  たった一回だけ、気晴らしに寄り道してみようと立ち寄ったカフェバーにいたのがアヤちゃんだった。それだけの出会いなのに、彼女の存在は心のオアシスとなった。  好かれたくて、無理して金払いの良い客を演じた。  使った金は数百万円。貯蓄もほとんど無くなった。それでもいいと思えた。  急にいなくなって、さらに恋心が(つの)った。 『凄い当たる占い師がいるんだって』  酒の席で、何気なく彼女の口から出た話題。それが、なんとなく心に残っていた。  占い師なら、彼女の悩みや私生活について聞いている。いなくなる前に、相談されているんじゃないかと考えて依頼した。  ボーナス全額払うという思い切った奮発も、アヤちゃんに使ったと思えば惜しくない。自分のものは、アヤちゃんのものだからだ。  ところが、今のところ何も出てこない。どうなっているのか気になって進捗を聞いても、「まだ調査中です」としか言わなくて、どこかに出かけている様子もなく、いつも店にいる。  本当に捜しているのか怪しくなってきた。 「自分で捜してみよう!」  だんだん信用出来なくなってきて、ついに思い立った。  彼女の交友関係を知らないが、店の子に訊けば、何かしらにたどり着くのではないかと考えた天橋律は、店でお金を使いまくって訊きまくった。  銀行口座はマイナスに突入。消費者金融からも借りてつぎ込んだ成果がついに表れた。 「同じように、アヤちゃんを捜しているホステスがいるわよ」との情報を得て、兼高かつらと繋がった。
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