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「はあー、疲れた」
ここに来てから働きづめのますみは、寝ても疲れが全く取れない。
朝、布団の中で目を覚ました瞬間から疲れていてげんなりする。
原因は、栄養不良だと分かっている。活動量に対して必要なエネルギーが足りていないからだ。
自給自足を標ぼうしているここの料理は、自分たちで栽培した肥料も足りなくて貧相な野菜ばかりが使われていて、しかも一人当たりの量が少なくて満腹になったことは一度もなく、生きていくのに最低限のカロリーしかとれないであろうことは、ますみにも分かっていた。
最初はダイエットになると喜んでいたが、やがて体力が落ちて動けなくなることが増えていき、このままでは良くないのではないかと思うようになった。小さな病気も繰り返すようになった。
周囲にいる信者の子供たちも、みな痩せていて小さい。このままでは成長が阻害されるだろう。
入信前は東京で高級デパートに勤めていた。担当は外商だった。外商は、お金持ちのお得意様相手に商品を売るのが仕事だが、ただ売ればいいというものではなく、金持ちたちのいろんな我儘に付き合わねばならなくて、大変な仕事であった。
東京には想像を遥かに超えた、とんでもないお金持ちが沢山いた。彼らは、一様にわがままで尊大で、外商を自分の奴隷だと思っているのか、偉そうに無茶な指図をいきなりしてくる。言われたことは、何でもやらなくてはならなかった。それも相手が喜ぶように。
デパートに勤めていた間、正月三が日に休んだことはなかった。
お得意様へのあいさつ回りから始まり、お得意様主催の宴会に手土産を納品し、それに留まらず、会場設置、余興の世話など、仕事の範疇じゃないことでも、ご機嫌取りのために何でもこなした。
ここには、パワハラだとかカスハラだとかの概念は一切通用しない。お得意様が白と言えば白であった。
お得意様の売り上げ額はとても大きい。彼らの機嫌を少しでも損ねてしまうと、それがなくなってしまう。だから、絶対に満足させねばならないという謎の使命感があった。
ますみは、我儘な顧客と接していく日々の中で、ありがたいより、侮蔑の念しか生じなかった。
個人の才覚で金持ちになったのなら、まだ尊敬できる。だけど、違う。たまたま金持ちなのだ。たまたま都心の土地持ちの家に生まれた。運が良かっただけのことである。だから、彼らが偉いんじゃない。
彼らの懐には、何もしていなくても、今この瞬間も金が入ってくる。そういう仕組みが出来上がっていて、誰も壊すことができない。
庶民の生活が、彼らに追いつくことは一生涯ない。
使うものと使われるもの。この関係性は、生まれながらに固定されている。
彼らの存在を知らない方が幸せだった。
そんな残酷な現実を知ってしまったますみは、虚しさから精神が押しつぶされそうになった。
睡眠時間を削り、心身をすり減らして手に入れるわずかな給料。それは、彼らの一日の収入にも満たない。
隣の声や下水の音が聴こえてくる、古くて狭いアパートに暮らし、あくせく働いてやりくりして生きていく。
たまの楽しみは、デパートで買うスイーツだった。それがささやかな贅沢で幸せだった。
一方、広い邸宅に住み、世界旅行を楽しみ、高級料理を堪能する金持ちたち。彼らは、毎日好きなことをして楽しく生きている。
そんな世界を知らなければ、まだ幸せだっただろう。
生まれてきた意味を見失い、生きる意欲さえ失ったますみは、今の仕事を一生続けるのは無理だと悩んだ。
そんな時に出会ったのが天喜教団だった。
アパートに入ろうとしたところで声を掛けられた。
今の世の中は、毒性の高い化学物質で溢れていて、知らず知らずのうちに蝕まれていく。人間は自然の存在であり、自然に寄り添った自給自足生活をすれば健康になって幸せになれる。そんな天国のような場所がある。それが天喜の国と言われた。
それらの言葉が心地よく響いて、信者の話に耳を傾けた。
自分が病んでいるのは、化学物質に蝕まれているからだと気が付いた。
ここなら幸せになれると信じて、信徒になった。
最初は通いで教義を学んだ。
初代教祖は、不思議な力で人々を幸せにしたらしい。
2代目教祖も同じ力を持っていて、信者には特別なパワーを分け与えてくれると言う。
そのパワーは、近くにいるほど強力に受け取れる。天喜の国で暮らせばより幸せになれると言われて、仕事を辞めてやってきた。
ところが、入ってみればこの状態。これでは、前と変わらないか、それより悪い。
デパート勤務は大変だったけど、今思い返してみると、全国の最高級品が集まる職場で何でもあった。どれも美味しかったし、お得意様からたまに差し入れて貰ったり、ミシュランの星付きが付いた高級レストランでご馳走になったりと、美味しい思いもした、ブランドショップが集まった、キラキラした売り場の空気も大好きだった。
あの世界は、とても楽しくて良かったと、何故かここにきて強く思うようになった。
それだけ、ここでの生活になじめていないと言うことだ。
他の信者は、教祖様の花嫁になろうと切磋琢磨するものまでいる。自分には、到底真似出来ない。
こうして、毎日悶々としながら、義務としての洗濯を繰り返している。
「潮時なのかな……」
初めて辞めたいと思った。
簡単に脱会できればよいのだが、その方法が分からない。今まで脱会して社会復帰した話も聞いたことがない。
辞めたいと言っていた信者を何人か知っているが、どの人も気づいたらいなくなっていた。
噂では、2代目教祖の逆鱗に触れて、不思議なパワーで存在を消されたとも言われている。
それを聞いて怖くなって、誰にも相談できなくなった。
「やっと、終わったー」
教祖の洗濯が終わって、元の持ち場に戻った。
物干し台を見ると、干してあったはずの洗濯物が数枚見当たらなかった。調べてみると、無くなったのは、信者服の上下2セットだ。
「誰かが持っていったのかな」
勝手に持っていく人はいるので、深く考えなかった。
それ以外の乾いた洗濯物を取り込み、部屋に戻って畳む。
畳み終えると、専用棚に片付けていく。こうしておくと、各自が必要な分を持っていく。
綺麗に畳まれて積み上っていないと、幹部に注意されてしまうので、棚を確認しようとするが、脳に栄養が足りていないのか、集中力に欠けてすぐに意識が飛んでボーっとしてしまう。
「陣屋ますみ! 何をしている!」
「ハ⁉」
幹部の怒号で我に返った。いつの間にか、意識を失って棒立ちしていたようだ。
「終わったら報告! やることは、まだまだあるんだぞ!」
報告を怠った罰として、夕食抜きとなった。
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