第1章 1話

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第1章 1話

◯ 「瀬名瑞希さん、愛情値がかなり低いです」 健康診断の保健面接は毎年必ず足止めを食らうから嫌いだ。 「あー、去年も言われてるので大丈夫です」 適当に話を終わらせようとしたが、今年の担当のおばちゃんは引き下がろうとしなかった。 「でも年々数値が下がってて、今年は特に低いわ。このままだと欠乏症で将来的には健康リスクが高まる。一度大きな病院に行った方がいいわね。再検査の通知を出しておくので担任の先生に預けておきます」 「え、それどういうことですか」 今までにない返答に瑞希は戸惑う。今までは要注意観察と判子を押されてそのまま流してきたはずだ。 「今年から青少年の健康を守る法律が定められたの、知らない?」 瑞希は首を横に振った。ニュースなんてほとんど見ない。 「愛が足りない子供が年々増加してるの。少しでも将来の健康リスクが高まりそうな子供には無償で指定病院のカウンセリング、および適切な治療を受けられるようになったのよ」 「それが私に当てはまる、と?」 「そうね、あなたはそれにピタリと当てはまるわね、学校に通う子供は担任を通じて指定病院の予約日時が伝えられるわ。つまり、半強制ね。諦めなさい」 どうやら瑞希のどうにかして逃げようという考えはお見通しだったらしい。 ピシャリと逃げられない旨を告げられ瑞希は思わず肩をすくめた。 ◯ 「瑞希、遅かったね。毎年だけど」 教室に戻ると、隣の席の隼人に声をかけられた。 「今年はついに引っかかった」 瑞希はため息をつく。指定病院でのカウンセリングに適切な治療、今回のことは親に知らせがいってしまうのだろうか。 「愛情欠乏症のやつ?あれって健康診断に引っかかっても親に連絡されないやつでしょ?」 「え?そうなの?」 瑞希は驚いてつい変な声を出してしまった。そもそも愛情欠乏症について詳しく知らないのだ。 「毎年注意されてるのに何にも調べてないのかよ…」 「だって、興味ない」 隼人はあからさまにため息を吐いてから言葉を続ける。 「子供の愛情欠乏症っていうのは、結構家庭環境に問題があってなる場合が多いから、下手に親に知らせると逆に危なかったりするわけ」 「あー、なるほどね」 「だから秘密裏に担任に通知されて保護者の監督をしたり、大変な場合は児童相談所に連絡がいったりってね」 そうして隼人は手をひらひらと振る。 なんだかんだと心配して待っててくれたのだろうし、さっきの情報も瑞希が気にしていると思って教えてくれたのだろう。 瑞希は隼人のそうした気遣いに対していつも申し訳なさを感じていた。 「隼人、ごめん」 「ん?なんかしたっけ?」 「あ、いや、いつも色々教えてもらったりとか」 まさか質問されるとは思わず瑞希は言葉を濁らせてしまった。何か間違えただろうか。 「そういう時はごめんよりもありがとう、だね」 隼人はニッと歯を出して笑いながら言う。 「まっ、大きい病院に行って色々教えてもらったら瑞希も変わるかもね」 ボンと音を立てて隼人は瑞希の背中を叩いた。 ◯ 「とりあえず、今日は一本注射を打ってお薬出しますね」 健康診断の翌日、瑞希は担任に呼び出され一枚のプリントを渡された。 そこには総合病院の名前とそこまでの行き方、そして予約日時と記された項目があった。 病院へも来院予約が登録されているとのことで、どう頑張っても逃げられないのだと、瑞希は観念した。 そして、今に至るわけだ。 「注射ですか?」 瑞希は白衣につけられたネームプレートを見る。 この先生は菊池先生と言うらしい。 「愛情っていうのは、基本的に自分自身が感じなければいけないものです」 菊池は優しい口調で瑞希に説明をする。 「今回打つ注射、そして処方するお薬は愛情を補う薬ではありません。あなたが愛情を感じやすくなる成分を投与します」 瑞希はよくわからず首を傾げた。それでどうなるのだろうか。 「愛情を感じやすくなることによって、ふとした瞬間に『これが愛情だ』と感じる。それを繰り返すうちに愛情がどういうものかわかってくる。わかってきたらもうお薬や注射は必要ありません。愛情を日々の生活から感じ取ることができるようになります」 なるほど、と頷く。つまり自力で愛情がどういうものか知っていくことが治療、と言うことか。 「治療方法はわかりました。それでもし、効果が出なかったらどうなるのでしょうか?」 「そうですね、まずは治療してみましょうか。効果が出なかった時のことはその後考えましょう」 菊池はうんうんと頷きながらそう言った。 瑞希はなんだか拍子抜けたような気持ちになった。治療というのだから長期になるとは思っていたし、もっと難しいカウンセリングのようなものを受けるのかと思っていた。 「そんなに深刻に受け止めなくて大丈夫ですよ。あなたくらいの年齢の子で愛情値が低いのは良くある話ですし、コツを掴んでしまえば愛情は簡単に感じられるようになりますよ。なんて言ったって愛情はその辺にたくさんありますから」 「そういう、ものなのですね」 瑞希はとりあえず頷いたものの、神妙な顔をしている自覚があった。愛情、それはその辺にたくさんあるものらしい。瑞希には見えてないだけなのだろうか。 「それじゃあ、また来週来てくださいね。予約時間は受付で決めてください、注射は隣の部屋で打つからこのまま移動してください」 横で待機していた看護師が扉を開ける。瑞希は軽く会釈して立ち上がり看護師の後に続いた。 ◯ 外に出ると、陽の暖かさを感じた。 ああ、太陽ってこんなに暖かくて優しいんだな。 グーっと両腕を上に向かって伸ばす。心は穏やかでとても軽やかだ。 今ならなんとなく、愛情がたくさんある理由もわかる気がした。 こんな気持ちになるのはいつぶりだろう。 瑞希は自分自身に違和感を覚えた。 何かがおかしい。そもそも自分は、なぜ、どうして、愛情欠乏症だったのだろう? 気づけば瑞希は家の前についていた。 なんとなく、家に戻ったらこの晴れ晴れとした気持ちはなくなるような気がした。 もったいないな、そうは思っても、瑞希の家はここだし、ここにしか帰る場所はない。 覚悟を決めて瑞希は家に入る。 「ただいま」 玄関を開けると、大きなボストンバッグを持ったお母さんが目の前に立っていた。 瑞希は思わずビクッと肩を震わせる 「あ、あれ、お母さん帰って来てたの?マナは?」 瑞希は自分の口から出てきた単語に息を呑んだ。 マナ、そうだ、マナは妹だ。年子の妹。 「なんだ、帰ってきたの。ちょうどこれからマナのところに戻るところ」 瑞希の方を振り向かずに答えるお母さんの姿を見て、瑞希は小さく手を握る。 「マナは…体調良さそう?」 瑞希がそう聞くとお母さんは嬉しそうに笑う。瑞希はその笑顔を見て、ちょっと胸が痛くなった。 「最近はちょっと調子がいいみたいで、うまくいけば来週くらいに一回帰って来れるかもしれないわ」 「そう、なんだ」 「そういえば瑞希、あなた最近成績落ちてるみたいね。あなたはマナと違ってせっかく学校に行けるし、運動だって好きなこともいくらでもできるのだから、もっと一生懸命生きなさい」 ああ、またか、せっかく久しぶりにお母さんと会えたのに、ロクな話はできず、いつも最後は瑞希はマナよりも元気で健康なんだから頑張れって言われる。 「うん、わかったよ」 お母さん、瑞希は今日病院に行ってきたんだよ、愛情欠乏症なんだって、本当はそう言いたかった。 「それじゃあ、お母さん行ってくるわね」 そう言ってお母さんは外に出て行く。 玄関に静寂が訪れる。 ◯ 「そうですねえ」 翌週、瑞希は再度病院を訪れていた。 「ちょっと、数値があまりよくないですね」 菊池は瑞希の愛情値の変動グラフをみながら、顎に手を添えた。 「どう?気持ちの変化はありました?」 「注射を打ってすぐくらいはとても明るい気持ちでした。太陽ってこんなにもあったかいんだって久しぶりに思いました」 瑞希がそう答えると有栖はうんうんと頷いた。 「なるほど、愛情を感じる部分については問題はなさそうですね。そしたら原因はお家でしょうかね」 菊池の言葉に瑞希は曖昧笑うことしかできなかった。 「大丈夫ですよ。よくあるケースですからね、でもそうですね」 菊池はそこで一度言葉を切った。そしてパソコンのほうを向き何かをタイピングした。 「知り合いのカウンセラーの先生を紹介します」 「カウンセラー、ですか?」 瑞希は首を傾げた。ここの病院の先生ではないのだろうか。 「個人の診療所を開いている先生で、瑞希さんの家からも近いので安心してください。個人的な話にはなってしまいますが、その先生とは旧知の仲なので信頼できます」 「カウンセリングを受けるとどうなるんですか?」 菊池はタイピングをやめて、再び瑞希の方を向く。 「これは医者としての勘になりますが、瑞希さんには理解者の大人が必要な気がしています。その有栖は愛情にまつわるプロなのできっと力になってくれますよ。これ、紹介状と住所です。連絡しておくので明日の午後にでも行ってみてください」 瑞希は封筒と小さなメモをもらって病院をあとにした。 幸い明日は日曜日で休みだ。ここで行かないと学校に連絡が行くかもしれない、瑞希はため息をついた。 家にいてもつまらないし行ってみるか、瑞希はもらった封筒とメモをカバンにしまった。 川沿いの道をしばらく行って、3本目の道を左に曲がったところに目当ての場所があるはずだ。 瑞希は有栖にもらった住所をスマートフォンに表示させ歩いていた。 スマートフォンが示す住所は都内でも有数のおしゃれスポットの駅が最寄りでちょうど瑞希の家と学校との間だった。 瑞希は周りを見渡しながら歩く。日曜の昼下がり、周りはカップルや子連ればかりで瑞希は自分自身がひどく浮いているように感じていた。 道を左に曲がるとスマートフォンに表示された現在地を示すカーソルはピタリと目的地の丸と重なった。 顔を上げるとそこには小さなビルがあり、入り口と思われる穴の近くにはネイルサロンの看板が出ていた。 入り口に近づくと古びた文字で斎藤ビルと書いてあるのを見つけた。中を覗くと角度が急そうな階段が見える。 もう一度住所を見ると、そこには斎藤ビル304と記されていたのでどうやら場所はあっているようだった。 思っていたところと違うな、と思いつつ瑞希は階段を登り始める。不思議と引き返したいという気持ちにはならず、むしろ思い描いていた病院像とあまりにもかけ離れていたせいかどんな人が開院しているのか興味が沸いていた。 思った通り階段は少し角度がきつく、3階にたどり着くころには少し息が上がっていた。 瑞希は息を落ち着かせつつ、部屋を探しながら歩く。 階段から1番遠い、奥の突き当たりに304号室はあった。 部屋の前には小さく手書きで“有栖診療所”と書かれてるプレートが下がっているのを見て、瑞希は深呼吸をした。 なんとなくこの扉の先は何かがあるような、そんな予感めいた、不思議な感覚があったのだ。 緊張で心拍数が上がっているのか、それとも階段のせいかわからない。 とにかく瑞希の心臓はひっきりなしに鼓動していた。 瑞希はインターホンを押す。「ピンポン」と、いかにも昭和な軽い音が響いた。 すると、ギッと音を立てて目の前の扉がゆっくりと開き始めた。 「いらっしゃい」 その声は深く低めで落ち着いた声色だった。 扉が開き切ると、そこには身長が高くガタイのいい男の人がTシャツ1枚で現れた。 しっかりと鍛えているようで、腕は瑞希の2倍くらいの太さはありそうだった。 「あの、病院の紹介で来ました瀬名です」 「ああ、菊池先生から話は聞いているよ。上がって」 「ありがとうございます」 瑞希は軽く頭を下げ、部屋の中に入る。 玄関で靴を脱ぎ、スリッパに履き替え男の後ろに瑞希は続いた。 廊下の扉を抜けるとそこには座り心地の良さそうな黒いソファーと高そうな木製のテーブルが置いてあった。 そして何より、ふわっと花の蜜のような、果実のような、説明はできないが、とにかくとてもいい香りがそこを漂っていた。 「適当に座ってくれ」 あっけに取られて立ちすくんでいると男は瑞希に向かって声をかけた。 「あ、すみません」 瑞希は再び軽く頭を下げるとソファに腰掛けた。 「緑茶と紅茶とコーヒー、それからジュースもあるけど何がいい?」 「あ、えと、じゃあジュースもらってもいいでしょうか」 「やはり子供はジュースが好きなんだな」 子供。確かに自分は子供であるが、いきなり初対面なのに面と向かって子供と言われるとは。 コーヒーも飲めるが今日はジュースが飲みたい気分だったのだ。 男はふむ、と頷くと奥へと消えていく。どうやらそこにキッチンがあるようだった。 かちゃかちゃと音を立て、再びこちらに戻ってくる。 「ときに、人は大人になると夏の日どんなに暑くても温かいものを飲みがちになるそうだ。対して子供は冷たい飲み物を飲みたがる」 男はお盆にグラスとオレンジジュースの瓶を乗せていた。 「そして今日外はまるで初夏のような暖かさだ。俺もちょうどジュースが飲みたいと思っていた。俺たちはまだまだ子供同士だな」 氷の入った2つのグラスを男は順にテーブルに置き、瓶に入ったジュースを丁寧に注いだ。 カラカラと音のするそれは非常に美味しそうだった。 「子供ってダサくないですか?さっき子供って言われてむかついちゃいました」 瑞希は正直に言う。まさか子供同士だ、なんて言われるなんて思っていなかったのだ。 「ダサい?そんなことないさ、子供時代があるから大人になれるんだ。今の大人は正しく子供時代を過ごしていなかったからずっと大人になれないままなんだ。それに、」 男はそこで一度言葉を区切ると、瑞希に向かってグラスを押し出した。 「君は今、俺の顔色を伺わず、自分の意思で自分の飲みたいものを選んだだろう?君の味覚や身体はまだまだ冷たくて甘いものを求める子供かもしれないが、心は十分大人になろうとしているはずだよ」 瑞希は言葉を失ってしまった。そして胸の奥がぐっと熱くなるのを感じた。 そんなことを言う大人は初めて出会った。そして瑞希、という存在をきちんと見つめてくれる存在も初めてだった。 「さて、俺の名前は有栖祐希だ」 「有栖……先生?」 「大体の人はそうやって俺のことを呼ぶ」 有栖はそうしてふっと笑った。 この人笑うことあるんだ。それまで全然表情が変わらなかった有栖だが、その日初めて瑞希は有栖の笑顔を見た。 釣られて瑞希もふふっと笑った。気づけば心臓の鼓動も鳴り止んでいた。 「私は瀬名瑞希です」 「瑞希、今日から何度か診療所に通ってもらうがどうかよろしく頼む」 父親以外の大人の男の人に名前を呼び捨てされるのは初めてで瑞希は慣れない心地に動揺する。今日は初めてばかりだ。 「こちらこそよろしくお願いします」 瑞希はわざと会釈ついでに下を向いて表情を隠した。なんとなくだけど変な顔をしている気がしたのだ。 これが、瑞希と有栖の出会いだ。 この日から有栖の元へ通う日々が始まり毎週土曜日は診療所の日となった。
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