第1章 2話

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第1章 2話

診療所では総合病院のように注射など治療っぽいことをする訳ではなく、ただちょっとおしゃべりをするだけだった。 有栖は医学部を出て、すぐに治療院を開院したらしい。 朝は苦手らしく、早めに行くと大抵ぼーっとしていた。 一方で昼になると元気が出てくるみたいで昼食を振舞ってくれる。 料理が好きらしく、毎回食べたことのない味のするものが出てくるが全部美味しかった。 瑞希以外に尋ね人がいる気配もないし、この人はどうやって生きているのだろうか? どうして治療院を開いたんだろう? 料理は何がきっかけで好きになったのだろう? 気づけば瑞希は有栖のことをもっと知りたくなっていた。有栖にはそういう人を惹きつけるような不思議な魅力がある、瑞希はそう感じていた。 「なんか、瑞希最近元気そう」 「えっ、そう?」 有栖のところに通い始めて1ヶ月ほどした、ある日の昼休みに隼人は瑞希に言った。 「愛情欠乏症の治療、なんかやってんの?」 「あー、うん、そこそこに?」 「そっか、その効果なのかもね!」 そう言って隼人は笑った。 瑞希は曖昧に笑い返す。 たしかに、最近変わったことと言えば有栖のところに通い始めたことだ。 そして何より、週末を待ちわびている自分がいることも感じていた。 お母さんはもちろんだけど、なんとなく隼人にも有栖のところに通っていることは言いたくなくて瑞希はあの時間を自分の胸の内にだけそっとしまっていた。 瑞希と有栖だけの秘密の時間、それは瑞希にとって大事な気がしていた。 「先生ってどこに住んでるんですか?」 ある日、瑞希はふと気になって聞いてみた。 「ここだ」 「え!ここ先生のうちだったんですか?」 瑞希は驚いて周りを見渡す。そういえば瑞希はこの診療所の中でソファのあるこの部屋とトイレしか行ったことがない。 「そうだ、実はあと2部屋ある」 「寝室、そして仕事部屋とかですか?」 「そうだな、大体は正解だがちょっと見てみるか?」 「いいんですか?」 瑞希は立ち上がった有栖の後に続いた。有栖のプライベートな部分に触れちょっとワクワクしていた。 「ここが作業部屋だ」 有栖はガラッと音を立てて引き戸を開けた。 「うわっ」 思わず声をあげてしまったが、そこには無数の果物や花、そして理科の実験に使うような器具と茶色の小瓶が転がっていた。 そして部屋中に色々な香りが漂っていた。 「アロマオイルは知ってるか?」 「名前だけは知ってますが実際に見るのは初めてです」 部屋に入りじっくりと機材を見る。 「こういうのって手作りできるんですね」 小さな茶色の小瓶がいくつか転がっていた。おそらくこれが完成品だろう。 「試しに嗅いでみるといい」 その言葉を受け瑞希は1つ手に取り蓋を外してみた。 ふわっと匂うそれは甘く優しい香りがした。手書きのラベルには『ローズ』と書かれていた。 「いい匂い……」 「それは薔薇の花から抽出した香りだな」 「勝手なイメージですが、こういうのって大人の女性が好むものだと思ってました」 しかし、実際に手に取って嗅いでみると自分の部屋がもしこの香りで満ちたらいい気分になるような気がした。 「そうだな、この世界はそういった縛りが多いんだよな」 「縛り?」 「これは女性が使うべきだ、元気がないとだめだ、大人にならなければならない、男らしくしないといけない、泣くのは恥ずかしい」 瑞希は有栖の言葉に耳を傾ける。 「俺はさ、かっこいいパンツスーツの魔法少女がいてもいいと思うんだよな」 パンツスーツの魔法少女、瑞希は想像する。たしかに魔物を倒すのにスカートは戦いにくそうだ。 「私もいていいと思います」 「だよなあ」 有栖はうんうんと頷いた。有栖の中で何かが腑に落ちたらしく、有栖はそのあとも何度か頷いていた。 「瑞希、君用のアロマオイル作ってあげよう」 「え!いいんですか?」 「世界に1つだけの君だけのアロマオイルだ」 瑞希だけの何か、それをプレゼントしてもらえる。瑞希の胸は喜びで踊っていた。家族でなく他人に何かを作ってもらうなんて初めてだ。 「香りっていうのは記憶と結びつく。例えばおばあちゃんの家を思い出す匂いとかないか?」 なるほど、と瑞希は頷く。うまく説明できないが雨の日の匂いとかはおばあちゃんの家の匂いに似てるかもしれない。 「瑞希に送る香りが、ここの診療所での出来事を思い出すきっかけになればいいと思っている」 瑞希は思わず息を飲んだ。 瑞希の部屋にここでの出来事が広がって、有栖のことを考えて、眠りにつく。 それはとても幸せな眠りだろうし、瑞希だけの、瑞希のためだけの時間だろう。 「先生のこと誰にも言ってないんです」 有栖は首をかしげた。別に有栖にとっては診療所での出来事は人に言っても言わなくてもどうでもいいことなのだろう。 「誰にも言いたくなくて、ずっと、これからもずっと、私と先生だけの秘密にしていたいんです。これって変ですか?」 なんだか泣きそうだった。涙は目尻まで浮かんでいたと思う。 なぜか胸が苦しくて、何かに締め付けられているような気がした。 「なにもおかしくことはない、誰だって大切にそっとしまっておきたいことはある」 「本当?」 「本当だ」 そう言って有栖は瑞希の頭をポンポンと叩く。 「…妹がいるんです。病気がちでよく入院しています」 「妹?」 「そう、年子の妹。でも血は繋がってないんです」 瑞希はポツリと言葉をこぼす。 その言葉は瑞希の柔らかい部分に落ちていく。 ◯ 瑞希がお母さんの本当の子でないと知ったのは結構前で、小学校6年生のときだ。 そのときにはすでにマナは入院していて、瑞希は家で1人、押し入れを漁って遊んでいた。 押し入れの中には昔遊んだゲームやアルバムが入っているので見てるだけで楽しいのだ。 そうした中、瑞希が見つけたのは母子手帳だった。 初めてみるそれを瑞希は興味本位で開いてみる。 すると、そこには知らない女性の名前と瑞希の名前が書いてあったのだ。 そして父親の名前は空欄だった。 そのとき瑞希はふと合点がいった。 当時からお母さんは瑞希に少し当たりが強かった。 瑞希は母の今までの言葉の数々を思い起こす。 「あ、ごめん、瑞希の分だけ買い忘れちゃった」 「あれ、いたの?気づかなかったわ」 「参考書?参考書がないと成績が上がらないわけ?」 きっと、全部わざとだったのだろう。 マナが病気だからお母さんはマナに付きっきりなのだと思っていたけれど、もしかしたら瑞希は。 空欄になっている父親の欄を指でなぞる。 お父さんとは普通の親子の距離感だと思っていた。 休日には一緒に買い物もするし、喧嘩して帰った日は相談にだって乗ってくれた。 そうして瑞希は元あった場所にそれを戻し、見なかったことにしたのだ。 もちろんショックではあったけれど、このときはまだたとえ母親と血が繋がっていなかったとしても親子であることには変わりないと思っていた。 だって、殴られている訳でも、ご飯が用意されていない訳でもない。 正直、いい子にして頑張れば本当の親子にしてもらえると思っていたのかもしれない。 だから、瑞希はとにかくいい子でいることを心がけた。 中学生のとき、瑞希は成績でオール5を取った。さすがにこの成績ならば母も褒めてくれる。 そう考えた瑞希は、見せたかった通知表を持って母のいる病院へ、マナのお見舞いという大義名分で赴いた。 マナにも見せてあげよう、そしたら学校に行く日を楽しみにするかもしれない。 というのは建前で本当は褒めてもらいたかったのだ。 マナの病室に入ると、マナは起き上がって母と折り鶴を作っていた。 「お姉ちゃん!」 「マナ、元気そうでよかった」 「うん、今日は元気なの!」 そうして瑞希は椅子に座って母さんとマナと話し始めた。 マナは入院中に知り合った友達のことや、病院内にある図書館スペースにある本の話、担当の看護師さんの好きな先生の話、色々と喋ってくれた。 今思えば、マナは自分の世界の中で精一杯明るく生きていたのかもしれない。 話が一瞬途切れた時、瑞希はさも思い出したかのように言った。 「そういえば、昨日通知表もらったんだ」 カバンからその紙を取り出し机の上に置いた。 「実はオール5で、美術でも賞を取ったんだ。今年度はリレーにも選ばれたし、結構頑張ったかも」 そのときの言い方はちょっと得意げな感じで、自慢っぽかったかもしれない。でも、いつもマナにばかり向いている視線を少しだけ向けて欲しかった。 「……ずるいよ」 マナは突然口をギュッと結んで、目から大粒の涙をこぼし始めた。 「え、どうした?」 瑞希はマナの突然の涙にギョッとして聞き返した。 「お姉ちゃんは外を歩けるし、運動だって、授業だって、当たり前のように出れるじゃん!そんなのずるいよ!」 そうしてマナはワーワー泣き出した。 瑞希は途方に暮れてしまった。 当たり前だって? 瑞希の健康を分けてあげられるわけではないし、この成績を取るために一生懸命努力したのは瑞希自自身だ。 この成績は、この頑張りは、当たり前なのだろうか? 「瑞希、マナは病気なの。だから健康なあなたの話を聞いたら羨ましがるに決まってるじゃない。もう少し妹の気持ちわかってあげなさい」 その後、瑞希は母さんにこんな感じのことを言われた。 「そう言う母さんは私の気持ち、考えてくれたことはあったのだろうか」そう思ってしまう自分がなんだか情けなくなった この日からうまく笑えなくなった。いい子にしてたって愛はもらえない。 マナのお見舞いにいくのもやめた。何がきっかけでまたマナを泣かせてしまうかわからないからだ。 どうしたらお母さんに愛してもらえるだろうか。もう諦めた方がいいのだろうか、そう考えていたある日瑞希は事実を知る。高校生に上がってからのことだった。 瑞希はその日、たまたま学校の調べ物を印刷したく父親の部屋に入った。 印刷を終えて、立ち上がろうとしたとき不意に地震が起きたのだ。 結構大きくて瑞希はお父さんの部屋で揺れが収まるまで待っていた。 しばらくして立ち上がろうとするとバサっと音を立てて何かが床に落ちた音がした。 音の先には本棚があり、床には1冊の本が落ちていた。 瑞希はそれを拾い上げる。 タイトルは『風の歌を聴け』著者は村上春樹である。 お父さんこんな本読むんだな、瑞希はそれを本棚に戻そうとするとはらりと一枚紙が落ちてきた。 「写真……?」 それは写真で、女性が赤ちゃんを抱いてこちらを見て笑っていた。 裏を見て、瑞希は息を飲んだ。 そこには『瑞希と薫』と書いてあったのだ。 瑞希は写真の女性をじっと見る、そして自分と雰囲気が似ていることを察した。 カオル、この人は瑞希の本当のお母さんだ。瑞希は昔見た母子手帳のことを思い出す。 そしてこの写真がお父さんの部屋から出てきた、ということは、瑞希はこの人とお父さんの間の子なのだろう。 そして瑞希は1つの可能性に行き当たる。 瑞希の妹のマナは瑞希と年子だ。お父さんはもしかしてお母さんを裏切ったのだろうか。 瑞希は写真を目に焼き付け、もう一度本に挟み直して本棚に戻した。 お母さんが自分に対して当たりが強い理由は察していたし、仕方のないことだとも思っていた。 でも、もしお父さんが裏切ったのなら、もしかしたらお母さんから本当に愛してもらえる日は一生来ないかもしれない。 じゃあ逆にお父さんが瑞希に対して普通に接するのはなぜだろう? 罪滅ぼし?同情?責任感? 瑞希は足元が揺らぐような、胸が震えるような、そんな心地に陥った。 信じていたものが崩れた、そう感じたのだ。 ◯ 自分の生い立ちを誰かに話したのは初めてだった。 「私は家族といると私は自分の存在が不確かなもののように感じられました」 「ずっと辛い思いをしていたんだな、1人で立って耐えて、えらいよ」 私は辛かったのだろうか?そしたら、甘えてもいいのだろうか。 ふと自分の中で何かのスイッチが切れた気がした。 瑞希は涙をポタポタと床に落とし始めた。 有栖はポケットからハンカチを出し、瑞希に渡す。 「俺はあっちでお茶を淹れてくるから、落ち着いたら出ておいで。それからその棚から好きな香りのものをいくつかピックアップしておいてほしい。それを元に瑞希のオイル作るから」 出て行かないで欲しい、そばにいてほしい。 できれば、抱きしめてほしい。 瑞希は有栖に向かって手を伸ばし、服を引っ張る。 「先生…行かないで」 有栖はゆっくりと振り向き瑞希を抱きしめた。 「先生…」 「…っ」 有栖がさっと離れる。 「じゃあ、俺はあっち行ってるから…」 ああ、もう行っちゃうんだ。瑞希は小さく頷く。 パタリとしまる扉の音が悲しく響いた。
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