第1章 5話

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第1章 5話

お父さんと母さんの出会いは学生時代のことだったそうだ。 同じ研究室に所属し、ともに過ごす時間が増えたことで少しずつお互いを意識していったのだという。 瑞希はお父さんの話を聞いて初めて母さんが理系であることを知った。 お母さんはあまり昔のことを話したがらなかったから。 結婚を決めたのはお父さんが大学院を卒業し、就職してしばらく経ってからだったそうだ。 お母さんは院に進学はせず、すでに就職していたため、お父さんの申し出をすんなり受け取った。 お父さんは結婚について『そうなることが当然のことだと思い疑いすらしなかった』と言っていた。 瑞希にはまだよくわからないけれど、お父さんなりに愛をそこに感じていたのだと思う。 お父さんが『カオルさん』と出会ったのは、母さんの紹介がきっかけだった。 母さんとカオルさんは高校時代の友達だったそうだ。 とても仲が良く、ずっと2人で一緒にいたとお父さんも聞いていたし、しょっちゅう母さんがカオルさんと遊びに行くのを知っていた。 そんなカオルさんはお父さんと母さんの結婚式で友人代表のスピーチをすることとなった。 お父さんはカオルさんと初めて会ったとき、身体中に衝撃が走ったそうだ。 『まさしく運命だと思った』とお父さんは言った。 時間の流れが逆になるような、血液が一気に回るような、頭を鈍器で殴られたような、とにかくそういう感覚だったそうだ。 そして、カオルさんの方も同じような感覚を受けていたそうで、2人の間には不思議な空気が流れた。 『きっとお母さんもその雰囲気に気づいていたと思う』とお父さんは言った。 とはいえ、お父さんは母さんのことを愛していたし、大切に思っていた。 そのため、滞りなく結婚式を終え、それ以来カオルさんと会うこともなく、穏やかに日々を過ごしていたという。 ところが『運命』というのは奇妙なもので、お父さんとカオルさんはたまたま再会したのだ。 結婚して数年、お父さんは出張で大阪に向かったときのこと、宿泊先のホテルのロビーでチェックインをしているとすぐ隣で同じようにカオルさんがチェックインをしていた。 お父さんもカオルさんもびっくりし、飛び上がった。しかも部屋は隣同士だったそうだ。 これはもしかしたらそうなる運命だったのかもしれないと受け入れたそうだ。 その日の夕飯をともに摂り、ホテルに帰り、お父さんは過ちを犯した。 『今度こそ、もう二度と会わないと思った。軽率だったと思う』 お父さんは申し訳なさそうに、苦しそうに言った。 お父さんは出張から帰ると同じようにお母さんを抱いたそうだ。 思えば罪悪感からだったのかもしれない、お父さんはそう言った。 それからしばらくして、お母さんはマナを授かる。 マナが生まれてしばらく経った日、お父さん宛に警察から電話がかかってきた。 すっ飛んで行くと、カオルさんが交通事故で亡くなったことを聞かされたそうだ。 カオルさんは自分の身に何かあったとき、お父さんに連絡がいくように手配していたらしい。 そしてカオルさんには1人の子供がいた。 『それが瑞希、お前だ』 お父さんは瑞希を連れて家に帰った。そして母さんに洗いざらい全てを話した。 まさかあのときに、子供ができてしまっていたなんて知らなかった、己の罪の象徴であるこの子を連れて帰ってきたことを許してほしい、とお父さんは母さんに頼んだ。 母さんはじっと瑞希を見て、そして力なく笑ったそうだ。 『母さんはあのとき、あの女によく似てると言ったよ』 そうして瑞希は瀬名家に引き取られ、瀬名瑞希として生きていくことになったのだ。 お父さんはこれが全てだ、と言うと黙り込んでしまった。 きっとお父さんは瑞希の言葉を待っている。 瑞希はそう気づいていたが、瑞希から何かを言うのは違うと思った。 だからこう言った。 「それで、お父さんはどうしてほしい?」 我ながらひどいことを言ったと思う。でもお父さんの気持ちが知りたかったんだ。 『許してほしいとは今更言わない。ただお父さんはお前のことを本当に大切に思っている。それは罪悪感とか同情とかじゃないお父さんの大事な息子だ』 聞いてみれば案外簡単なことなんだな、瑞希はお父さんの言葉を聞きながら思う。 「お父さんありがとう、瑞希も別に恨んでなんかないよ。生まれてきてよかったって思ってる」 電話越しに呼吸が乱れる音がした。 『瑞希、悪かった、ずっとお前を辛いところにおいて逃げて悪かった』 正直自分の出生については驚くこともあったけれど、今更足掻いたって結果は変わらないわけで、瑞希がそれを受け止めてどう生きていくかの方が重要だと思ったのだ。 『もし、家にいるのが辛かったら大阪に来ないか?お父さんはもうしばらくこっちで仕事になると思うから』 お父さんの言葉に瑞希は返答に迷う。たしかに、お父さんの言う通り家から出たほうが気持ちも落ち着くだろう。 「少し、考えさせてほしい」 『わかった、もちろんゆっくり考えてほしい』 そうして瑞希は電話を切った。 瑞希はベッドに倒れ込む。思った通りの話だったとはいえ、改めて聞くとやはりそれなりに来るものがあった。 「瑞希」 部屋のドアから控えめなノックと母さんの声がした。 「え?何?」 「ちょっといい?」 「あ、うん」 戸惑いつつも瑞希はドアを開ける。 「あ、っと、マナは?」 「久しぶりに高校に顔出すからってもう寝た」 「そう、なんだ」 マナは通信制の高校に通っている。退院するたびに一応顔を出しているようだった。 「お父さんから電話きたの?」 「うん」 「母さんはずっとマナの世話を言い訳にしてあなたとちゃんと話すのを避けていたけれど、あなたを引き取ったことに後悔はないわ」 じゃあ、それだけだから、と母さんは外に出て行った。 瑞希はその姿を目で追って、そっか、と笑った。 お父さんも母さんも不器用だったんだろうな、と瑞希はもう一度ベッドに倒れ込んだ。 ◯ 次の日、学校に行くと隼人が心配そうに駆け寄ってきた。 「風邪、ではないよね?」 と聞く隼人に瑞希はうん、と頷いた。 昼休み、瑞希は隼人にこの2日は家出から始まってお父さんと話して色々あったと説明した。 隼人は時折目を丸くしながらも話を聞いてくれた。 「それで、大阪に行くの?」 「それはちょっと迷ってる」 「意外だな、すぐにでも離れたいかと思っていたよ」 瑞希はちょっとね、と笑って誤魔化す。 「ふーん、東京にいたい理由でもできた?」 そう言って隼人は、茶化すように笑った。 瑞希は実際図星だったため、まあ、そういう感じ、と言うことしかできなかったが、その反応がさらに意外だったのか隼人は今一度目を大きくさせた。 「え、本当に好きな人でもいるの!?」 その言葉には、愛情値が低い瑞希が恋愛ごととはどういうことだ、という戸惑いと疑問が透けて見えるようだった。 瑞希は有栖のことは誰にも言わず胸にしまっておこうと思っていたが、ちょうど色々あったこともあり何かを伝えることに前向きになっていたのだろう、その日はつい、うっかり、隼人に秘密を話してしまった。 。 「その人を見ていると、胸が締め付けられるような感覚になる」 有栖の丸まった小さな背中を思い出すたびに、その背中が愛を拒絶しているのだと思うたびに、その背中に抱きついて自分の表現できる最大限で何かを伝えたくなった。 きっとこれが好き、ということなのだと瑞希は思っていた。 「世界が先生と私だけだったらよかったのに、家出したあの日、そう言ったんだ」 隼人は黙って頷く。 「そしたらやんわりと、他にも大切なものがあるだろうからきちんと大切にしなさいって怒られちゃった」 「そうか」 世界がもし、瑞希と有栖だけだったら、きっとそれは幸せだろうけどダメになっていた。 だから自分は家族と向き合うし、初めて抱いたこの『好き』という気持ちを大切にすると決めた。 「あの人は、誰も愛さないし、誰からも愛されないって言ってた。私はそれになにも言えなかった。せっかく教えてもらった愛情なのに、あの人になにもしてあげられなかった」 あのとき、声をかけるべきだったのか、ずっと考えていたけれどわからなかった。 こんなにも有栖のことを想っているのに、その想いは空に消えていくばかりだった。 「なるほど」 隼人は腕組みをして、少し背中を逸らした。 「その人が拒絶してるからってそれでもうおしまいなわけ?」 「そんなことは、ないけど……でも迷惑なら踏み込むのはやめようかなって」 いらない、と言っている人に差し出し続けるのは、しつこいような気がしたのだ。 「うーん、それは本当の想いが伝わってないからじゃないか?」 「なにそれ?」 「物事には本質があるって話。だってお前、その人に対して心開いたのは何かきっかけがあったからだろ?」 あの診療所の扉を開けて、有栖と初めてあったときのこと。 有栖は最初からずっと瑞希と同じ目線でいてくれた。 それが嬉しくて、心地よくて、この人だったら瑞希の領域に入ってきてもいいと思った。 「ありがとう隼人」 「お、解決した?」 「今日有栖のところ行ってくる」 よかった、と隼人は頷く。 「初めて秘密を話した」 「秘密?」 瑞希はうん、と頷いた。 「有栖のことが好きだってことは秘密にしようと思ってたんだ。瑞希だけの想いだけにしようと思ってた。でも隼人に話さなければ私はきっと二度と有栖の内側に踏み込もうとは思わなかったと思う。だから、ありがとう」 「……なんか、瑞希変わったね」 「そう?」 隼人は非常に真剣な顔で頷く。 「羨ましいな」 「なんか言った?」 隼人は小さい声で呟いたが、瑞希の耳にはその言葉が届かなかった。 「ううん、なんでもない、じゃあ放課後頑張ってな」 そう言って、隼人は手早くコンビニの袋にゴミを詰めると立ち上がった。 「あ、うん」 慌ただしく教室を出ていく隼人を瑞希は目で追う。 全部落ち着いたらもう一度お礼言わなきゃな、瑞希は窓の外に目をやった。 気づけば季節は夏真っ只中、夏休みはすぐそこにきていた。
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