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第1章 6話
「定期診断でもないのに来るなんて、あなたらしくなくて驚きました」
放課後、瑞希は菊池先生のところにいた。
有栖先生と話す前に、どうしても菊池先生に真相を確かめたかったのだ。
「以前、先生がおっしゃってた私が『あの子』、有栖先生に似てる、という話について改めて聞きたくて」
「そうですか……」
菊池先生は腕を組み首をかしげる。そしておもむろに引き出しを開け始めた。
「これは、昔の有澄先生です」
差し出された写真には中高生くらいの男の子と今より少し若い菊池先生が写っていた。
男の子の面影はたしかに有栖先生だった。
有澄先生はにこりともせず、難しい顔をしている。
「彼は、愛情欠乏症として私の元に通っていたんです」
「……有栖先生から聞きました」
「彼は孤児院出身で、身寄りがなく、愛情を知らなかったんです。私は医師として、カウンセラーとして、彼と向き合いました。その甲斐あってか彼の愛情値は少しずつ回復して行ったんです」
先生の治療はちゃんとうまくいっていたのか、ではなぜ今の先生はあの状態になってしまったのか。
「愛を知るうちに彼はどんどん外に向かって飛び出していきました。内向的だった彼ですが、本当はやってみたいことがたくさんあったようでした。特に医者という職業に興味を持ったみたいで、暇さえあれば勉強していました」
そこで菊池先生は一呼吸置いた。
「彼はそのうち、夢を持ちました。それは医者になって愛情欠乏症の子供を救う、ということだったようです。夢を持つ、というのは自分のことを大切にできる人がする行為です。彼は自分自身のことも愛することができるようにまでなりました。私は治療は完了したと思いました」
瑞希は静かに頷いて先を促す。
「彼の仲の良い友人が亡くなったと聞いたのはその後すぐでした。その友人は彼の話の中にもよく登場した、明るくて優しくて笑顔の絶えない子でした。自殺だったそうです」
あまりの展開に瑞希は目を伏せた。そんな悲しいことがあったなんて。
「その友人は愛情欠乏症だった、と知ったのはもう少し先のことでした。その子が彼と友達になったのは、自分と同じで愛情を知らなかったから、だったんです」
「どうしてそのことがわかったんですか?」
「その子は亡くなる前に有栖先生宛に手紙を送っていたんです。その手紙には『有栖がどんどん愛を知って変わっていくのが怖かった。今まで自分は人に優しくして明るく振る舞って、ニコニコして、さも愛情を知っているかのように振る舞っていた。まるでピエロのような自分がどうしようもなく、悲しかった。本当の愛を知った有栖は自分とぜんぜん違った』と書いてあったそうです」
そのことを受けて先生は、人を殺してしまったとそして罪滅ぼしのために診療所を開いたと言ったのか。
瑞希はまるで自分のことかのように悲しくそして苦しくなった。
先生はずっとその痛みを抱えて生きている。
「その子のことにもし私が気づけていたら、もっと良い言葉を彼にかけてあげられていたら、そう考える日もあります」
先生は写真を引き出しの中にしまった。
「瑞希さんは少し有栖くんに似ています」
「私と先生がですか?」
「だから彼と同じように大切なものを失わないでほしい、そう思っています」
菊池先生の言葉には重みがあった。
きっと先生はその友人に目を輝かせながら夢を語ったのだろう。
大事な友人だったからこそ話したのかもしれない。
その友人は一体どんな気持ちでそれを聞いていたのだろうか。
「菊池先生、ありがとうございます」
「いえいえ、ちょっとした独り言です」
◯
瑞希は診察室から出た。そして携帯を取り出し、メッセージアプリから通話ボタンを押した。
『なに、どうした?』
存外早く通話に出た相手の声に瑞希は安堵する。
「いや、ちょっと話したくなって」
『なんだよ、今日学校でも話したじゃんか』
電話の相手は隼人だ。瑞希は少し緊張をしていた。
「今日ってなんか宿題出てたっけ?」
『あー、数学はなんか出てたな、まだやってないけど』
「そういえば今日の体育のときのバヤシ先生面白かったよね」
『あ!あれね!教官室から持ってきた靴がどっちも右足だったやつ』
「気づかなくて履こうとしてるの傑作だったわ」
『あの後本人が1番笑ってたけどな』
「あのさ、隼人はなんで私と友達になったの?」
一瞬の間があった。
『え、友達になろうと思ったことに特に深い意味はなくない?』
「思い出したんだけど、隼人に初めて話しかけられたのって健康診断の後だったよね」
もう一度間があった。
『あれだろ、俺保健委員だったから。健康診断のカード集めるときにな』
「うん」
『ほら、きっかけなんてそんなもんだろ』
「そっか」
『そうだよ』
「あのさ」
瑞希は一旦そこで言葉を区切る。
「もし、違ったら違うって言って笑い飛ばして欲しいんだけど、隼人も愛情値低かったりする?」
『……そうだって言ったら?』
「隼人の生きる理由になりたい」
さらに長い間があった。瑞希は根気強く隼人の返事を待った。
『はは!本当にお前ってやつはさ!』
電話口で隼人は大笑いしていた。
『本当に残酷だよ、ひどいわ』
「私も、そう思うよ」
『なんか、もうさっきまで全部どうでもいいやって気持ちだったんだけど、お前の言葉聞いて元気出たよ』
「そっか、ごめん」
『謝るな馬鹿、安心しろ、お前が死ぬまでは俺はお前を理由に生きるから』
瑞希はその言葉を聞いて、もう一度心の中で謝った。
隼人が本当に愛情値が低いのかどうかはわからない。
瑞希のことをどう思っているのかもわからない。きっと聞かない方がいい。
でも、それで彼が一緒に生きてくれるのならば。
「じゃあ、また明日学校で」
『おう、じゃあな』
「約束だからな」
『わかったって』
瑞希は電話を切った。そして一度息を吐き出し走り出した。
通い慣れた道を瑞希は走った。
こんなにも気持ちが軽いのは初めてだった。
見慣れたビルにたどり着いた瑞希は、思いっきり階段を駆け上がった。
そしてインターホンを押す。
ガチャっと音がして扉が開いた。
「瑞希……?」
扉を開けた先生は瑞希の顔を見て目を丸くした。
「まだ平日だし、走ってきたのかっ…」
瑞希は先生の言葉を遮って思いっきり先生に飛びついた。
「ちょ、ちょっと」
先生は片手で瑞希を支えながら扉を閉めた。
意外と力あるんだな、瑞希はどうでもいいこと考えながら全てを先生に委ねていた。
扉が閉まりきったところで先生は瑞希に降りるように促した。
「先生、好きです」
「は?」
先生は意味がわからない、という顔をする。
「私、先生が好きなんです」
「すき」
「大切に思っているし、先生が苦しんでいるならそれを私も背負いたいです」
「ちょっと落ち着こうか」
先生は苦笑いしながら部屋の奥へと手を向けた。
瑞希は先生の後ろをついていった。
「菊池先生と話をしてきました」
キッチンでお茶を入れてくれている先生に向かって瑞希は声をかけた。
「そうか」
「先生の友達のこと聞きました」
「……そうか」
同じ言葉を繰り返す先生は手馴れた手つきでポットからカップに紅茶を注いでいた。
その後ろ姿は相変わらず寂しそうで哀しくて、愛おしかった。
「先生はずっと自分のことを責めて生きてるんでしょう?」
「そんなことないよ」
「そうやってごまかして、また自分を傷つけてる」
「だからそんなことないって」
「先生は何に謝り続けてるの?死んだ人は帰ってこないし過去は変えられないんだから残った人間がどうやって生きていくかの方が大事じゃないんですか?」
「うるさいな!」
ガチャンと音が鳴り響く。
「知ったように言わないでくれ!俺は、俺は、もうあんな思いするのはいやなんだ」
「……怖いんですか?」
部屋がシンと静まりかえる。
「怖いよ、人は簡単に人を傷つける。無自覚な傷付け方ほど残酷なものはないよ」
「先生、私が先生のことを許すよ」
許すこと、それが瑞希がたどり着いた愛の意味だ。
瑞希は父さんのことも母さんのことも許そうと思う。
「先生が無理に自分を許そうとしなくても、私が許すから」
「そう、か……」
先生はそう言ったきりタガが外れたかのように笑い出した。
「傑作だよ、本当に」
先生は笑いながら泣いていた。
「先生、私は先生のことが好きです」
瑞希は先生に近づいて少し背のびをして先生の頭を撫でた。いつもやってもらっているように。
そうして瑞希は先生の瞳を見つめて、唇にキスをした。
「……魔法はなにも解けないぞ」
「まさか、お伽話でもあるまいし」
瑞希と先生は、目を合わせて笑った。
○
瑞希はその後、大阪に行くことはやめた。
そしておよそ半年後に迫った大学受験に本格的に挑戦することに決めた。
夢ができたのだ。
愛の反対は無関心らしい。その意見には賛成だ。
そもそもそこに関心がなければまず愛なんて生まれないだろう。
瑞希は隣で寝ている有栖の姿を見て笑みを浮かべる。
この人が私に愛を教えてくれた。
だから私もこの人を全力で愛する。
有栖の頭を撫でる瑞希。
瑞希はそっと言う。その言葉は小さな声だったが確かな決意がこもっていた。
「絶対、私があなたを幸せにするから」
絶対にこの人の愛情欠乏症を治す。
瑞希は窓の外を眺める。月が出ていた。
第1章 完結
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