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玄関の引き戸から、ぬるい夜風が入り込んでくる。昨日までは感じられなかった陽気の名残りに、心の底が少し浮き上がる。春という季節は、何度迎えても嬉しいものだ。
「よし。行こうか、ゆき。今日は花見だ」
ミックス犬のゆきは頭を一つ振ると、大人しく私の隣を歩き始める。おなじみの散歩コースは、自宅から南へ、河川敷を通り、小さな公園で引き返す、といったものだ。
川沿いの桜並木が今日からライトアップされる、と朝のニュースで言っていた。普段よりも人通りは多いだろうか。とはいえ出店が並ぶほどの活気はないだろうから、ゆっくりと見られるだろうか。
「今年も見られて、嬉しいよなぁ」
ゆきは何度も何度もこちらの顔を見上げてくる。尻尾も左右に揺れている。しかし私の言葉を否定するように身震いして、歩く速度を上げた。膝に気を付けるよう医者から常々言われている身なので、私は少しだけリードを引く。
予想した通り、河川敷には老若男女、様々な人が集まっている。
桜はまだ満開ではなかったが、十分すぎるほど花弁はほころんでいる。昼間のやわらかな空気の中で見るのも良いが、鋭い陰影を帯びた姿もまた、風情があるものだ。
並木道の中間ほどまで進めば、絵画や映画の世界に入ってしまったかのような錯覚を受ける。どこを見ても薄桃色が広がっており、時折、ごく控えめな香りが鼻腔をくすぐる。
ゆきの背中にも、花びらが一片くっ付いていた。取ってやろうと身をかがめ、ふと、木の幹に隠れるように立っている人影に目が行く。
「……お前さん。今年も来たのか」
「何ですその言い方。朝野さんもひそかに待ってたでしょう、俺のこと」
黒スーツ姿の痩せた若者は、隠れ鬼で見つかった子供のようにはにかむ。この男、平井は、毎年この桜並木を見にやって来るのだった。
ゆきがうちへ来てからのことだから、数年は経つ。もっと手入れに力を入れている場所や、観光名所と銘打っている場所もあるだろうに。理由を聞けば「俺の一番はここなんで」と、それ以上を話すことはない。
平井は片手にぼろぼろのビニール袋を提げていた。泥汚れに目を留めれば「飲食禁止なのに、ポイ捨てが多いっすねえ」と大仰に肩を竦める。袋の中には空き缶やスナック菓子の袋が入っているようだ。道すがら落ちているごみを拾ってきたのか。
「殊勝だな」
「綺麗な景色を楽しみたいのでー」
と言いつつ、平井はぼんやりと顔を巡らせながら歩き出す。私達に合わせた速度で、端末のカメラを花へ向けることもなく。去年もこうだったな、と思い出す。純粋に景色を楽しみながら、こちらの散歩に付き合う。それが平井なりの花見なのだ。
「今年も元気そうで。何よりっすね」
「おかげさまでな」
「っはは、朝野さんじゃないですよ、ゆきさんですよ」
「……おかげさまでな……」
ゆきは、平井から話しかけられても素知らぬふりで足を止めない。……いや、心なしか、いつもより姿勢良く歩いているだろうか。人間ならばすました顔をしていそうだ。
「まぁ朝野さんも元気に越したことないか。一年なんてあっという間だけど、人間、老けるもんは老けますからねぇ」
体感時間が短く感じられるのが加齢の証拠と言うではないか、と言うと、平井は口を大きく開けて笑う。
「っははは! 実感こもってる!」
「お前さんなぁ、他人事だと思って」
「いやいや、他人事ですんで」
お揃いのリュックを背負った学生の集団とすれ違う。お辞儀をするなんて今どき珍しいように思う。もちろん平井も私も、軽く会釈をした。
「……しかし、嫌いだ、苦手だと言いながらも、よく毎年来るものだ」
「えー?」
「昔から言っていたろう。桜は苦手だと」
にこにこ、という擬音が似合いそうな顔を崩さず、平井は歩く速度を緩め、立ち止まる。立派な枝が垂れ下がり、平井の頭をかすめそうになっていた。
「……っけど。期間限定のものって、一度知っちゃうと毎年気になるじゃないですか。好き嫌い関係なく意識するっていうか、あー今年も来たなー、って」
「冷やし中華みたいなものか」
「そこはてりたまバーガーって言って欲しかったっすねぇ」
平井の足元にすり寄ったゆきが、早く進めと言わんばかりに鼻先を押し付けている。平井はかがんでゆきのあご辺りを撫で、「そもそもですよ」と言葉を続ける。
「朝野さんのせいで、もっと嫌いになったんですからね。春も、花見も、桜も」
「……」
「ううん、これって責任転嫁なのかな。……だってそうじゃなきゃ、こんなの、未練以外の何でもないじゃないですか」
「それは、……花が嫌なのではなく、未練がある自分が嫌なんだろう」
「いいえ? 未練たらたらな自分を思い出させてくれるから、桜が嫌いなんです」
立ち上がった平井は、笑みを消して私を見つめる。癖のある髪に、花びらが落ちている。
「ねえ朝野さん。……“そこ”は、俺が良かった。なのに、なんで俺じゃないんでしょう」
私に対する問いかけではないように響く音だった。私のせいだと軽口の延長で詰りながらも、それは違うと平井自身も分かっているからだろう。
毎年繰り返されている問答だった。変わらない平井の問いに、私も同じ答えを返す。
「お前さんが納得できる答えを、私は返せないが。強いて言うなら、人生だよ」
「……」
「お前さんに非はない。しかし、お前さんじゃないのは、変えようのない現実だ。……この桜並木があるから迷わず来られる、ってのは、些か酷な考え方か?」
「……精霊馬じゃないんだから」
まったく朝野さんは、と、平井は眉尻を下げる。ゆきも賛同するように、私の靴を数回軽く踏みつける。
「だけど一理あるや。俺、夏に帰って来ようとしてもさっぱりなんだよ。すぐ迷子になるから、最近は来るのもやめちゃったんす」
「それ、よそでは言うなよ……」
「言いませんよ。俺が見えてるの、朝野さんだけなんですから」
「…………人間はな」
再び歩き出す。私は年齢相応の足取りで、平井は無重力空間にいるような軽さで。彼が「地に足をつけている」のは私への配慮ではないだろう。ゆきのリードを引く飼い主のように歩くのは、“そこ”にいる私への当てつけに過ぎないのだろう。
春の季節に、この桜並木の下で。平井という存在は、愛犬に会うためだけに現れる幽霊なのだ。
「しっかし、ゆきさんは幸せもんだなー。新しいご主人も優しい人で」
平井の方を向き、千切れんばかりにゆきは尻尾を振る。
「なになに? 前のご主人のほうが優しかったし美味しいご飯をくれてた? そっかそっか、苦労してるんだなあ」
「おい」
「冗談ですって! ゆきさん見れば分かりますよ、どんな風に過ごしてるのかは」
大きくなったけど可愛いまんまだもんな、と、平井はゆきをもう一度撫でる。……彼が飼い主だった時分には、ゆきはほんの子犬だったが。我が子がいくつになっても可愛らしく思える心境は容易に理解できる。
近所に越してきた若者としか認識していなかった奴から、犬を譲り受けることになるとは思ってもいなかった。この年になると、大抵のことには驚かなくなると思っていたのだが。
そいつが心配のあまり、向こうから毎年様子を見に来るだなんて誰が想像できただろう。幽霊になってもごみ拾いを率先してするような男なので、生真面目さは折り紙つきだと言えばそれまでだが。
「あーあ、ほんっと、なんで咲いちゃうんだろうねー、ゆきさん、お花ねー」
「……平井。まんじゅう怖い、って知ってるか」
「そりゃ、俺は怖くて怖くてだいっ嫌いですよ、桜」
「……そうかい」
並木道はあと数メートルで終わってしまう。平井は唐突に表情を引き締め、「じゃあ、今日はそろそろ」と足を止めた。
「来週は雨が多いらしいぞ」
「なら、今週いっぱいは大丈夫ですね。お散歩、サボらないでくださいよ」
返事の代わりに片手をあげる。平井はピースサインを寄越して、三段跳びのようにステップを踏み、姿を消した。
「……今週は、賑やかな散歩になりそうだ」
明日はもっとゆっくり歩こうな。
そう声をかけると、ゆきは尻尾をひと振りした。
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