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健斗が右の前髪を払って見せると、琴子は大声を上げて腰を抜かした。
「ひ、ひいい!」
「そのような体たらくで、よくもまあ私を支えるなどと言ったものだな」
茂三は琴子の失態に舌を打ちながらも、一枚の書類を示して見せた。それは楓の字で署名捺印された離婚届の書類だった。
「何の茶番だ」
「では家にお帰りになって、確かめてごらんになると良い」
勝ち誇ったような茂三の笑みに、苛立ちは最高潮に達した。
「I'll kill you, you bastard。まどろっこしいことを言うな。今、私は、最高に苛立っている」
*
ふう、と意識が浮き上がると、楓は体の自由を奪われて、部屋の真ん中に寝転がっていた。気が付きましたか、とひょうひょうとした顔で見てきたのは、森内である。
「……っ、森内さま。どうしてこんなことを……」
確かに二度も楓を助けてくれた人なのに、どうしてこんな風に豹変してしまったのだろう。彼の真意を確認したくて、楓は訊ねた。森内は、世間からの非難を考えてのことですよ、と微笑んだ。
「楓さま、あなた、本当の華族ではないそうですね? でしたら社長の事業拡大のために必要なものを持っていないということになる。それなのに、何故あなたは社長の妻としてのうのうとその座に居座ろうとするのですか。僕の会社としても、協力相手の社長の妻が平民であったことで、被る被害も大きいのですよ。商売と言うのはハクが大事ですのでね。あなたから社長に離縁を申し出るべきでは?」
商売に影響がある、というのは楓も理解できる。それでも、心に決めていることがある。力のある目で、森内を見る。
「確かに私は平民でしたし、琴子さまに比べて素地も教養もないかもしれません。ですが、旦那さまをお慕いし、お支えしたい気持ちは本当です。旦那さまも私を頼って下さった。その事実を糧に、私はこれからも旦那さまの隣に居たいとおもうのです」
しっかりとした口調で対抗すると、森内は口端を上げて楓を見下ろした。
「強欲ですね、そういうところは琴子さまにそっくりだ。あなたを社長の妻として認めない層が、社交界に何割かは居るのですよ。お聞きになったでしょう、パーティーでのあなたへの蔑視の言葉を。あなたはその事実を憂い、社長から身を引く覚悟をなさい。覚悟が持てないのなら、作って差し上げます」
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