菱文を纏う

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(……とすると、彼女は堀下の娘ではないのか? しかし、養父(ちち)が堀下子爵に娘との結婚話を持ち掛けたことは、養父に確認が取れている……)  娘ではないが、茂三が自由に扱える娘、となると、また調べた方がよさそうだ。しかし、これではっきりとした。楓は噂で聞いていた堀下子爵令嬢ではない。しかし、それがかえって良かったと思っている自分がいることを、健斗は意外な気持ちで受け止めていた。 (以前だったら、堀下子爵に立腹するところだが……)  今は、楓が噂の令嬢でなくて良かったと思っている。楓は否定したが、書斎の書類はおそらく静子と掃除でもしたというところだろうし、食事も料理人の手さばきを真似たというだけあって、美味しいものだった。一緒に暮らし始めて少ししか楓のことは知らないが、それらのことを踏まえただけでも、華族令嬢にありがちな高慢さは備えていないだろうと分かる。それに、彼女は健斗の働き過ぎを心配した。おそらくそれが、彼女の本質なんだろうと思う。ナチュラルに他人を気遣える人間に、悪いやつはいない、と言うのが健斗の考えだ。  ぱさりと報告書を閉じて、目をつむる。これからせねばならない事柄を整理しながら、健斗は自動車の揺れに身を投じた。    *    ある日楓は、静子に食器棚の奥にある缶について教えてもらった。紅茶といって、英吉利では一般的な飲み物らしかった。 「私にも淹れられるでしょうか」  英吉利で一般的な飲み物なら、きっと健斗にもなじみ深い味の筈だ。夜の休憩に紅茶を差し入れてあげたいと思い、静子に訊ねると、淹れ方を教えてくれた。 (新鮮なお水を、五円玉くらいの泡が湧くまで沸かす。それから……)  お湯を沸かしている間に、ティーポットとティーカップを出し、湧いたお湯をポットとカップに注ぐ。これはポットとカップをあたためるためで、ポットとカップがあたたまったらお湯は捨てるのだそうだ。あたためるお湯を捨てたら、ティーポットにティースプーン1杯の茶葉(缶の中身だ)をポットに入れ、沸騰直前のお湯を注ぐ。そして三分、蒸らすのだそうだ。
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