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1.とおいあのひから
あたたかい晴れの朝は、起きたらまず城中の窓を開ける。爽やかな風とともに鳥たちがやってきて、おはようおはようと私の頭の周りを飛び回る。
「おはよう、みんな。今日は気持ちのいい1日になりそうだね」
私が言うと、鳥たちはそうだねそうだねと嬉しそうに同意してくれる。
<シェリヤールはシェリヤールは?>
鳥たちの声に、私は頬をほころばせた。
「シェリヤールはまだ寝てるよ。お布団大好きだから」
鳥たちがくすくすとかわいらしい笑み声を漏らした。
<お布団お布団>
「そう、お布団」
<魔族のくせに魔族のくせに>
「それは言わないであげて。いったんお布団で寝ちゃうと病みつきになっちゃったんだって」
鳥たちがさざめくように笑いながら飛んでいく。
私と出会う前は、シェリヤールは寝る場所にこだわらなかったそうだ。草むらでも、木の上でも、教会の屋根の上でだって寝たことがあるらしい。
そんなシェリヤールだけど、人間の家の中に招き入れられて、ベッドというものに初めて横になったら、こう思ったそうだ。
「これはいいよね。だめになるよね」
いいのかだめなのか、でもわかるような気はする。
その日からシェリヤールは、お布団というものに並々ならぬ愛着を抱くようになった――というのが、本人の談。
寝室に戻ってみたら、シェリヤールはお布団に埋もれて幸せそうに眠っていた。その顔を眺めていると、私までほっこりした気分になってくる。
ああ、私も、まだ少し眠たいみたい。
私とシェリヤールは、古い古いお城に住んでいる。
庭に生えている木は、手入れも何もしないのに果物や実が成る。泉からはいつも新鮮な水が湧き出ていて、時々どこからか来た獣がウサギや何かの肉を届けてくれる。お洋服や石けんなんかの必需品は、シェリヤールが調達してきてくれたり、私が街まで買いにいったりする。
見様見真似で失敗も多いけれど、お料理も自分でできるようになった。お洗濯も私の仕事。お掃除はシェリヤールもできるけれど、任せておくと魔法で埃を飛ばしてしまうからちょっとずるい。
毎朝来てくれる鳥や、いつの間にか住み着いていた猫の親子や、季節ごとに変わる虫たちが、シェリヤールのほかには私の話し相手。
動物たちと話せるのは、シェリヤールの魔法のおかげ。このお城全体に魔法がかかっていて、彼が許さない者は入れないことになっているそうだ。いまだに誰も、ここに入ってきた人はいない。
「シェリヤール?」
私の呼ぶ声に、シェリヤールは顔だけこちらに向けた。瞳が開かない。
このお寝坊さんな魔族は、私の夫だ。
***
あれは、5歳の頃。
私は大きな商家に生まれた。お父様は商談であちこち旅に出る人で、その時も別の街へ出かけていた。
私とお母様はお留守番をしていたけれど、たまたまその日はばあやを連れて街に買いものに出たのだ。
お母様の手を離していたのは、ほんの短い間。なのに、誰かがぐいと私の手を引っ張って、何かをばさりと私に被せた。身体が逆さまになって宙に浮いて、そこからずっと、真っ暗。
あんまり急だったから、叫ぶこともできなかった。
私は気を失ったらしい。はっと我に返った時には、見たこともない、暗くて、汚い小屋の中だった。
足首に縄が結ばれて、柱に繋がれていた。
「おかあさまあ! おとうさまあ!」
怖くて怖くてわあわあ泣いたら、大きな男の人が顔を見せて怒鳴った。
「うるせえ! 静かにしろ!」
静かにしなさい、と、お母様やお父様に叱られたこともある。でも、これは全然違った。憎くて叱るんじゃないんだよ、っていう、お母様とお父様の言葉の意味が、その時になってわかった。
言葉は同じでも、全く違うんだ。
静かにしてないと殺されちゃう。私はぶるぶる震えながら、でもとにかく口を結んだ。
見回したら隅の地面に穴が掘られていて、ひどい匂いがした。それが何のための穴なのか何となくわかったけれど、それを使うなんて考えるだけで吐き気がした。
たぶん夜になって、食事が出された。硬いパンとちょっぴりのスープ。
それから朝が来た。また夜が来た。もう1回朝が来て、夜が来て、3回めくらいで数えるのをやめた。
そんなある日、扉を開けて、男の人たちが入ってきた。
「おら、行くぞ」
その人たちは私の縄を引っ張って歩かせて、荷馬車に乗せた。幌が分厚くて外は見えない。縄は荷台の端に繋がれた。
馬車が動き出して、私は荷物の間でしくしく泣き出す。
「おかあさま、おとうさま」
夜だった。
不意に、私の手に何かが触れた。
「大丈夫?」
びっくりして顔を上げたら、そこにいたのはとてもきれいな男の人だった。
頭のてっぺんはきらきら銀色に輝いているのに、毛先に行くに従って月のない夜みたいな黒に変わる、不思議な髪の毛。青白く透けた肌。そして黒い瞳は七色の光を帯びて、まるで虹だった。
さっきまで、そこには誰もいなかったのに。
私はぽかんと口を開けてその人に見惚れていた。
「大丈夫?」
同じ言葉を、その人は繰り返した。やわらかい声だった。ベルベットにそうっと触れた時みたい。
私の頬に、また涙が伝った。
「こわいよ、おかあさま、おとうさま、かえりたいよ」
私が訴えると、その人は頭を優しく撫でてくれた。
「うん、おいで。怖いかもしれないから、目を瞑っていて」
美しい人は、そう言うと私を抱き上げた。
目を瞑っていたら、頬に風を感じた。
私の髪の毛は栗色で、癖が強くて、全然言うことを聞いてくれない。肩まで伸ばしていたその癖っ毛が翻って、ふわふわと顔の周りに広がった。
おずおずと瞼を開けると、私は夜空を飛んでいた。
「わあ……!」
私は恐怖も忘れて歓声を上げる。
きれいな人の腕がしっかり私を抱いている。すごく気持ちがいい。冬の朝のリンゴみたいな、清々しい匂いがする。
「すごいすごい!」
私が喜ぶと、その人は笑った。
「あんまり騒がないで。落としちゃいそうだから」
私は慌てて口をつぐんで、その人にしがみついた。
この人の言う騒がないでは、とてもあたたかかった。
「ねえ、おなまえ、なんていうの?」
「名前? 知りたい?」
「うん。わたしは、ティーデ」
人に名前を訊く時は自分から名乗るものよ、と、お母様から言われたことを思い出して、私は言った。
虹の瞳の人はしばらく沈黙していたけれど、そのうちふわりと微笑んだ。
「僕は、シェリヤールだよ」
「シェリヤール?」
変わった響きの名前だった。舌に乗せると、砂糖玉みたいに甘い。
「おうちはどっち?」
シェリヤールが尋ねた。
「ええと、ええと……」
わからなくてまごつく私に、彼は笑った。
「わかった。いいよ。お母様とお父様を思い浮かべて」
そう言われて、私は一所懸命お母様とお父様のことを考えた。お母様のお顔や、お仕事をしている時のお父様、食事をとる時の楽しい会話なんかを。
じわりと、涙が滲む。
シェリヤールはふいと方角を変えた。
そうして飛んでいくうちにだんだん街が見えてきた。お母様やばあやとお買い物に出た街、私が生まれた街、暮らしている街。
郊外に建っている、私のおうち。
「あそこ! あれがおうち!」
私が思わず叫ぶと、シェリヤールはおうちの玄関の前に降りた。
「おかあさま! おとうさま!」
どんどん、扉を叩いたら、ばちんと中で何かの音がする。続いてがたがたと何かが揺れて、倒れて、扉が開いた。
「ティーデ!」
お母様が飛び出してきて、私を抱く。
夜も夜中なのに、お母様は起きていたんだ。それも驚いたけれど、お母様が泣き出したのも驚きで、それからお母様がシェリヤールを見て顔色を変えたのにも驚いた。
お母様は、さっと私を自分の背中に庇った。
お父様もお母様の後ろから走ってきて、じっとシェリヤールを見ていた。
怖い顔だった。お母様も、お父様も。
シェリヤールの方は、困ったような寂しいような顔をしてお母様とお父様を見て、それから私を見た。
「じゃあね、ティーデ。さようなら」
私はぱっと振り返った。
「まって、シェリヤール、いっちゃうの?」
お母様が目を丸くした。
「名前を預けたの?」
名前を預ける? 名前を預けるってなに?
私が混乱していると、シェリヤールは黙って頷いたんだ。
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