16人が本棚に入れています
本棚に追加
3.わけあって
他の人が怖がるといけないからね、と言って、シェリヤールはおうちの敷地から出なかった。
私を助けてくれたのだということを、お父様は使用人たちに説明した。私の言うことを聞く使い魔みたいなものなんだと言ったのだけれど、それをみんなが理解したかどうかはわからない。お父様の話を聞いても、みんな、シェリヤールを遠巻きにして近づこうとしなかったから。
ばあや以外は、シェリヤールと仲よくしている私にも近づかなくなった。
でも、私はそれでも別によかった。お母様もお父様も変わらなかったし、使用人たちと遊ぶよりもシェリヤールと遊ぶ方が私にはずっと大切だった。
「はい、はんぶんこね」
それは、お母様が作ってくれた布のケーキ。おままごとのお皿に乗せて差し出すと、シェリヤールは嫌な素振りひとつ見せずにちゃんと食べる真似をしてくれる。
「僕は何の役なの?」
シェリヤールが尋ねる。
「おむこさんだよ」
私が答える。
シェリヤールは虹の瞳を丸くして、笑いで弾ける。
「お婿さんかあ。ティーデがお嫁さんなの?」
「うん」
私は、なんでシェリヤールは笑うんだろうと考えていた。こっちはすごく真面目におままごとをしているのに。
そんな日々が、5年続いた。
10歳の誕生日を迎える直前に、悪い病が街にやってきた。
それは死にいたる流行り病で、全身の発疹とともに高熱が5日ほど続いたかと思うと、急激に弱って、そのまま死んでしまうというもの。
最初はお父様だった。
お父様は主寝室ではなく離れに寝かされた。お医者様が呼ばれた。私は絶対に近寄ってはいけないとお母様にきつく言われて、おうちの中が奇妙にしんと静まり返っていたのをいつまでも忘れられない。
お父様が寝ついて2日して、今度はお母様が倒れた。ほぼ同じ頃、ばあやが。
誰もどうしてよいかわからなかった。お医者様もこの病には及び腰で、診察はするけれど何もできずにそそくさと帰ってしまう。私は看病したかったけれどみんなに止められて、使用人たちの数人がおうちから逃げ出していった。
お父様、お母様、ばあやが、あっけなく亡くなってしまった。
すぐにお役人様が来て、私に言った。
「これ以上の感染を防ぐために、この家を焼き払います」
「でも、私のおうち、私はどうしたらいいの?」
「ご親戚の方にご連絡なさってください」
私はシェリヤールの膝で泣いた。
「どうしよう、おうちがなくなっちゃう、どうしよう」
シェリヤールは何も言わず、ただ私の背中をさするだけだった。
それからの数日、私はおうちから様々なものが運び出されていくのを見た。
ベッドやソファ、テーブル、椅子。お母様の鏡台や、お父様の立派な文机も、使用人たちや、どこかから話を聞きつけてやって来た人たちが、ひとつ残らず手をつけていく。
「やめて、持っていかないで、返して」
私がわめいても、誰も聞いてくれなかった。
「焼いてしまうなんて勿体ない。流行り病のことは黙っておいて売りに出せばいいさ」
誰かがそんなことを言っているのが聞こえた。
「ティーデというのは、君かな?」
遠い街から来た、伯父様だという人が私を呼んだ。
シェリヤールがすごくぴりぴりしていたのを覚えている。その伯父様が、私を頭のてっぺんから爪先までじろじろと舐め回すように見て、あの人さらいみたいないやらしい顔をしていたからだ。
ものを盗んでいく人たちも、伯父様も、そこにいるシェリヤールを普通の人間と思っているみたいだった。私のことも、ただの子どもと思っているみたいだった。みんな自分が欲しいものしか見ていなくて、私たちもまた、物だった。
やがて、おうちに火が放たれた。
私はシェリヤールの手を握って、泣きながらおうちを見ていた。私のおうちが、炎に包まれて崩れ落ちていくのを見ていた。
「ティーデ」
私の名前を呼んだのは、シェリヤール。
「僕と一緒に行こう」
シェリヤールは私をさっと抱き上げて、顔を近づけた。あっと思った時にはもう、彼の唇が私の唇に重なっていた。
私は思わず歯を食いしばった。だって、口と口をくっつけるのは大人になってからすることだって、お母様が言っていたんだもの。いくらシェリヤールでもそれはいけないことのような気がして、どうしてそんなことをされるのかわからなくて、怖くなった。
胸が太鼓みたいにどんどんどんどん鳴って、痛くて、苦しい。
一度、シェリヤールが離れた。
「ティーデ、力を抜いて。怖いことも痛いこともしないから」
いつもより硬い声音で、シェリヤールが言った。
再び唇が触れて、やっぱりどきどきしたけれど、私は彼を信じた。言われた通りに力を抜いた。そうしたら口の中に何か長いものが入ってきて、ぺと、と音が鳴った。ぺるん、とそれが口の中を一周した。
シェリヤールの舌だった。
何だかぼうっとしてしまって、私は彼を見上げていた。燃える炎から熱風が吹いているのに、シェリヤールはとても静かで、髪の毛の銀色が星のように瞬いて、ふるふるとうねっていた。青白い肌が輝きを放っているみたいだった。
「シェリヤール」
私が手を伸ばすと、シェリヤールはその手を強く握った。
「しっかりつかまっていて。長く飛ぶから」
シェリヤールは空に飛び立った。
街を抜け、川を過ぎ、山を越えて、辿り着いたのは森の中にある小さなお城だった。
古い古いお城。埃がうず高く積もって、何年も何十年も人が住んでいなかったお城。そこに降りると、シェリヤールはすうと大きく息を吸い込んで止めた。
シェリヤールから、何かが噴き出して広がっていった。それは風のようで風ではなく、波のようで波ではない。わぁんわぁんと耳鳴りみたいな音が鳴って、まず埃が吹き飛ばされた。それから崩れていた壁がめきめきと立ち上がり、穴は塞がって、割れた窓にぴんとガラスが張った。
呆気に取られているうちに、ぼろぼろだったお城が蘇った。
私の前に跪いて、シェリヤールは言った。
「必ず戻ってくるから。ここで待っていて」
見たこともない真剣な顔だった。私はわけもわからず頷いて、また飛び立つシェリヤールを見送った。
それから、それから。
何かを運んできてはまた飛び立ち、もう一度何かを運んでくる、というのを、シェリヤールは数度繰り返した。
運んできたものはあのおうちの私のベッドと、お気に入りの小さなソファと、お母様の鏡台。妖精の柄のついたチェスト。私が大切にしていたもの。使用人たちや、盗人たちが、持ち去ってしまったもの。
お城に着くと、それはひとりでに部屋まで飛んでいった。悲しかったのも忘れて見に行ったら、一番日当たりがよくて一番居心地のよさそうなところに、元の私の部屋と同じような部屋が出来上がっていた。
失くしてしまったと思った、私の想い出が帰ってきた。
「君のものは取り返してきたよ。でもごめんね、お母様とお父様の分までは……」
「……シェリヤールのベッドがないよ」
私が言うと、シェリヤールはかすかに微笑んだ。
「僕のものなんていいんだよ。あれは借りていただけだし、僕には何もできなかったから」
「だめだよ。シェリヤールのベッドもないとだめ。お願いだから、シェリヤールのベッドも」
シェリヤールは苦しそうに息を吐いた。
「わかった。君がそう言うなら、あと一度だけ」
彼は再び飛び立って、ベッドとともに戻ってきた。
「ごめんね。僕は生気を食べる魔族だから、病気を治すことはできない。お母様もお父様も助けられなくてごめん。おうちを守ることは、しようと思えばできたけれど……。そうしたら、街のヒトと戦わなければならないから。僕が街のヒトと戦ってしまったら、君が追われてしまうから……。こんなことしかできなくて、本当にごめん」
シェリヤールの肌が、くすんで色を失っていた。きらきら輝いていた髪の毛の銀色も、いまは灰色になって闇色の部分が増えて見える。瞳にも、夜の虹が見えない。
「少し、眠らないと……」
そう言うと、シェリヤールは崩れ落ちた。
「シェリヤール!」
私は悲鳴を上げる。駆け寄って、彼にすがりつく。
「シェリヤール、お願い、置いていかないで。ひとりにしないで。一緒にいてよ、シェリヤール」
シェリヤールは瞳だけを動かして私に応える。
「大丈夫……。力を使い過ぎて、疲れただけだから。眠って、起きたら、また……」
シェリヤールの瞼が閉じた。
私は泣きながら、シェリヤールをベッドに引きずった。軽かった。大人の男の人に見えていたけれど、私より小さな子を抱えているくらいの重さしか感じなかった。
彼をベッドに寝かせて、その胸に潜り込んで、私は泣きじゃくった。もしも彼までいなくなってしまったら、もう生きていけない。泣いて泣いて泣いて、息が苦しくなるまで泣いて泣き疲れて、いつしか私も眠る。
長い眠りだった。
目が覚めたら、シェリヤールが心配そうに私を撫でていた。
「シェリヤール」
ぎゅっと抱きしめてくれる腕の中で、私はまた泣いた。涙は、枯れることがないみたいだった。
最初のコメントを投稿しよう!