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「あ、はい。こんなことに使われるかもしれないし、気をつけます」
風祭さんの心配はもっともだと思う。だから、俺は神妙に頷いた。
「あ、いや。そゆうんじゃなくて。
鈴がたっぷり愛情込めてあるから、なくさないであげてってこと」
はは。と、軽く笑って、風祭さんが言う。あんまり、軽いノリだったから、俺は拍子抜けしてしまった。
「呪われるなんて、普通はあることじゃないから、そんなに、心配しなくてもいいよ。
ただ、血は穢れだから、中性洗剤でよく洗って」
『けがれ』を俺の頭は『穢れ』と、変換したけど、間違っていただろうか。
「中性洗剤? ですか」
それは多分、『汚れ』を落とす方のやつだろう。こういうのはそういう科学的なやつではなくて、もっと、何というかスピリチュアルなアレとかじゃないと駄目な気がする。
「そんなもんだよ?
だから、気にしない」
けれど、風祭さんが本当にいつも通りの様子だから、それでいいことにする。
そもそも、こういうことについて、俺は全く知識がない。怪談話を聞いているとなんとなく知った気になるけれど、実際のところ本当のことなんて何にもわかっていないんだ。何故とは聞かないで。と、言外の圧を感じるから敢えて聞こうとは思わないけれど、こういうことにも詳しいようだし、何より、風祭さんは鈴が信頼している人だ。
だから、俺も信じようと思う。
「あの……最後に一ついいですか?」
でも、もう一つどうしても気になっていることを、俺は聞かずにはいられなかった。
「なに?」
風祭さんが問い返す。
「あの呪いの子はどうなったんですか」
俺の問いに先に答えようとしたのは、鈴だった。けれど、風祭さんが片手をあげて、それを止めた。
「池井君。こんな言葉知ってる?
『深淵を覗くものは、ひとしく深淵から覗かれる』
それを覗きこんだのは彼女の意志だ。だから、その責任は彼女自身のものだよ?」
それは、聞き覚えのある言葉だった。ドイツの思想家の言葉だ。
風祭さんが言いたいことは、俺にもわかった。それは、彼女になんらかの『よくないこと』が起こったことを意味していた。
そして、風祭さんが俺を気遣ってくれているのがわかっていても、何も思わずにはいられない自分がいた。
「でも……」
そう言った瞬間だった。
からん。からん。
と、音を立てて、ドアが開く。
「おう」
ドアを開けたのは川和さんだった。
「あん? まだいたのか? もう、7時半過ぎてるぞ?」
店内の時計に目をやってから、驚いた様子で川和さんが言う。どうやら、彼も、俺たちが出かけるのだと知っていたようだ。
「本当だ。池井さん。そろそろ行かないと」
鈴が、俺の背に手を置いて言った。その顔が少しほっとしたように見えた。そして、言いかけた問いを遮られたことに、俺も、少しだけほっとしていた。
この深淵は、俺が覗くには深すぎる。
けれど、いつか。
それがいつかは、分からないけれど、それを、覗かなければいけない日が来る。
そんな気持ちを引きずって、俺は促されるままに緑風堂を出たのだった。
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