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「おい。池井。俺のことまさか忘れてないよな?」
眉間に皺を寄せて怒っている表情。あまり特徴はない。平凡で可もなく不可もなく。どこかで見たことはある。けれど、名前までは出てこない。
思い出そうとするけれど、酔いのせいか考えがまとまらない。
「薄情者。お前が好きだった図書委員の保科さんの電話番号手に入れてやったの俺だって忘れたのか?」
保科さん。と、言う名前に俺ははっとした。それは、中学時代の初恋の相手の名前だ。電話番号を書いた紙をお守りのように持っていたのも事実だ。
「しかも、結局手に入れてやったのに電話できなかったの慰めてやったじゃん? 覚えてねえの?」
恥ずかしい話なのだが、電話はできなかった。結局俺にはその勇気がなかった。
「…おい。大丈夫か? マジで酔ってんの? 顔色悪いぞ?」
間違いない。そんなことまで知っているのは、仲がよかった証拠だ。
なのに、名前が思い出せない。彼のいうことおり、かなり酔っているみたいだ。なんだか耳鳴りのような音がする。視野が狭くなった感覚。背中から何かにつられて宙に浮いているような、酔っている時の感覚。
、
「まあ、俺、中学卒業した後、県外だったから、同級会出るの初めてだし。電話番号の後は文化部のお前とはあんまり接点なかったしな。戌井だよ。戌井。出席番号近かったから、入学してすぐに仲良くなっただろ」
戌井。という名前には、聞き覚えがある気がした。同級生にいた覚えがある。確か、何か運動部にいたはずだ。
顔を見ると、戌井はにこ。っと、笑う。人懐こい笑顔だ。そう言えば、この笑顔には見覚えがある。
「戌井…? わり。俺、本気で酔ってるみたいだ。頭働かね」
考えてみれば、中学時代の友人の中でも、名前を憶えていない相手も珍しくない。今日、同級会に来ていないメンバーの内の数人は名前どころかクラスにいたことすら覚えていない。中学時代の記憶なんてそんなもんかもしれない。特に、自分は変なものが見えることを他人に知られたくなくて、深い付き合いを避けていたところがあったから、接点のない人物なんて、本当に記憶になくてもおかしくない。
「いいよ。俺、県外の支社から今度こっちに転勤になったんだ。これからは同級会も参加するから、また、飲もうぜ」
含みのない笑顔を返して戌井は答えた。
その笑顔がぐにゃり。と、歪む。
「おい。池井!?」
ぐら。と、頭が揺れて、倒れそうになって慌てて持ち直す。それから、頭を振って、意識を引き戻す。
どうやら、本当にマズいレベルまで飲んでしまったみたいだ。明日は遅番とはいえ仕事がある。意識があるうちに家に帰らなければいけない。
「俺、そろそろ帰るわ。えと。会費は先払いだったからいいよな。わり。戌井。幹事に言っといて」
そう言って、俺は立ちあがった。けれど、また、頭がぐらついて、思わずテーブルに手をつく。
「おい。一人じゃ無理だって。俺も明日仕事あるからもう帰るし、一緒に帰ろうぜ」
悪いからいいと、断る間もなく、戌井はコートを着始める。正直、一人で帰れるか不安だったし、これ以上議論するのも億劫になって、俺は戌井の提案に頷いた。
のろのろと、自分のコートを羽織って、席を立つ。他のメンバーはまだ、怪談話に夢中になっているようだ。隣座っていた池田に明日も仕事だから帰るな。と、小さな声で告げると、酔っていることを心配されたけれど、笑って大丈夫と答えて席を離れた。
戌井の姿が見えない。先に店を出たのだと思って、あとを追う。
ふと気づくと、あの黒い影は見えなくなっていた。
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