18 かの思想家が語るには

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18 かの思想家が語るには

「本当に災難だったね」  俺の目の前にブドウの香りのする緑茶を置きながら、風祭さんが言った。 「確実に3回くらいは死にました」  緑風堂のいつものカウンター席。膝の上には緑が乗っていて、緑茶の隣には紅がごろん。と、寝そべっている。紺は相変わらず、いつもの本棚の隙間に挟まっているけれど、長いしっぽでてしてし。と、俺の片手を叩いていた。  最高の癒しの時間。けれど、今日は仕事終わりではない。 「心配してたんだよ?」  カウンターの向こうから手をのばして紅の頭を撫でて、風祭さんは柔らかく微笑んだ。  鎖が見えなくなってから、風祭さんは以前に増してよく笑うようになったと思う。しかも、笑顔がすごく綺麗だ。そのせいなのかどうかは分からないけれど、元々女性客ばかりだった緑風堂に俺みたいな男性の一人客が増えたような気がする。 「すみません。でも、そんな大げさなことでもないんですよ?」  結局、あの後、俺は強制的に入院させられた。大きな傷はなかったものの、そこら中擦り傷だらけで、服はぼろぼろ。カバンまで失くしてきて(これは後で警察に拾得物として届いていた)兄ちゃんが卒倒しそうになったからだ。とは言っても、別に大怪我ではないので、頭に異常がないのが分かって、すぐに無罪放免になったのだが。警察に通報されないように自転車でこけたことにしたのだが、信じてもらえたかどうか怪しい。  一方、鈴は入院まではしなかったらしいが、俺と同じくあちこちぼろぼろ、数日寝込んだそうだ。けれど、俺を心配させまいと内緒にしていたから、結局それを、風祭さんから教えられて、お説教をした。とはいっても、しゅんとして怒られてるのが可愛くて、たいして怒れなかったんだけど。  もちろん、バイクは廃車になってしまったらしい。弁償させてほしいといったんだけど、『俺が池井さんを守りたかっただけなんだから、カッコつけさせてください』と、言われて、ただただ惚れ直して終わってしまった。 「もう、身体は大丈夫?」 「はい」  あれから二週間。元々、大した怪我ではないから、身体の方はすっかり回復して、もう、仕事にも復帰している。 「それはよかった。池井君がいないと、鈴も、うちのにゃんこたちも寂しがるからね。鈴なんか、こないだも、ちよっと池井君からLINEの返事来ないからって、5分おきにため息吐いて」  ふふ。と、微笑んで、風祭さんが言う。  鈴が会えないときも、俺のことを心配してくれるのは嬉しいけど、風祭さんがどんな意味でそう言っているか分からなくて、俺は曖昧に笑顔を返した。
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