桜散る、桜咲く

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 4月1日。  桜の花びらが、風に吹かれて自室の窓を舞い踊るように横切っていく。  終わってしまった。俺の高校生活が。  なんでこんなにもあっという間なんだろう。  花弁を散らす桜と自分自身がこれほどに重なることがなんだかおかしくて、奇妙な笑いすら漏れる。  まるまる三年前の、入学式の朝。  春光の満ちる体育館で、斜め前に座るブレザーから伸びる真っ直ぐな首筋に釘付けになった。 「春田 (かい)くん」 「はい」  低めの少しハスキーな声と共に、彼はすっと美しい背で立ち上がる。  こんな退屈な儀式のこんな一瞬に、これほど胸が震えるなんて。  知っている。自分の中に芽生えた蕾は、きっと一生開花することはないのだろうと。  中学校時代も、部活の先輩を目で追う自分に気づき、悶々と戸惑う間に先輩の横には可愛い女子が寄り添うようになって。  自分の恋に望みは抱けないのだと、少しずつ脳に刷り込まれた。  脳はそれを学んだはずなのに、心はそんなことには従ってはくれない。  心は脳などに従わないものなんだ。  滑り出した高校の日々の中で、性懲りもなく刺さってくる痛み。心が脳の指令を受け入れてくれたなら、きっとこんなことにはならないのに。  理数科にいたおかげで、クラス替えは免れた。  けれど振り返れば、そのせいで俺の3年間はまるで数時間しかなかったようでもある。  彼しか見ていなかった。彼しか追っていなかった。彼のことしか考えていなかった。ただの一秒も、彼から心が離れなかった。  元々単独行動が好きだったし、クラスメイトも皆さほど他人に興味を示さず、教室は適度に居心地良かった。俺はいつも自分の席でひとりスマホを見るふりをして彼を盗み見た。  明るい茶色の素直な髪。裏表のない笑顔で友達と笑い合う。スケボーが好きらしい。時折頬杖をついて、教室の窓の外をひとりで眺めている。  柔らかそうな髪が風に吹かれて煌めくその残像が、いつまでも瞼から消えなかった。  耳に嵌まったイヤホンの奥に流れる旋律を、いつも聴いてみたくてたまらなかった。  高二の夏休み前。大学入試に向けクラス内の意識が少しづつ高まる。  そんなある昼休み、彼は不意に俺の前の席の椅子を引き寄せ、椅子の背を抱えるようにしながらガタリと跨って俺の正面に座った。 「……」  突然の出来事に目を白黒させる俺に、彼はこともなげに話しかける。ずっと前から親しい友だったかのように。 「な、水島くん。物理教えてくんね?」 「——……え」 「いや、難しーじゃんフツーに。水島くん、物理点数いいらしいって聞いたからさ」 「……お、教えられるかどうか……」  彼は、プッとおかしそうに吹き出した。 「センセーみたいに教えろとは言わないからさ。なんかヒントっぽいものが欲しいってのかな」 「……あ、そ、そういうことなら……」  俺はショートしそうな脳をなんとか動かし、必要な言葉を唇から押し出した。 「事によれば手伝えなくもないかもしれない」 「はははっ! なんだよその日本語?」  彼の笑顔を、初めて間近で見た。  パチパチと炭酸水みたいに弾ける笑み。遠目から見れば360度綺麗なその顔は、笑うと思った以上に幼い。白く清らかに伸びた首筋と、ボタンの一つ開いた襟元が直視できない。  俺は思わずスマホを取り落としそうになり、手汗で滑る指で必死に端末を握り直した。  俺は、彼にうまく教えられていただろうか。  放課後の図書室やファストフードのテーブル。そんなありきたりな場所が、これほどに特別な場所になろうとは一ミリも想像しなかった。  物理を教える時間は、いつも彼と二人きりだった。 「他の奴らいるとうっさくて集中できねーし、水島も嫌がるだろーと思ってさ」  シャーペンを指先でくるくると弄び、問題文を読みながら彼はさらりとそう話す。  彼は理解が早いし、一度教えたものは間違わない。閃いたようにノートに数式を書き出し、彼は顔をあげるとニカっと微笑んだ。 「ってか、水島の説明聞いてるとセンセの話よりよくわかるわ。なあ、受験まで俺の部屋に住み込みしねえ?」  そういう冗談と笑みが、何度俺の胸を震わせたか。  ——今、好きだって言ったら。  このまま、もうずっと二人きりでいられるんじゃないだろうか。  そんな勘違いが、何度脳をよぎっただろう。  そんな夢みたいな時間は、瞬く間に過ぎていく。  高3になり、彼に引き続き勉強を教えながら、俺も猛烈に勉強に熱が入った。  同じ大学へ行きたかった。都内でもトップクラスの大学を目指す彼と。  なのに彼は、願書提出直前に突然志望校を変更した。  ここから遠く離れた大学に。  やりたいことがあるんだと言った。そこでしかできないことがある、と。  俺が同じ大学を目指していたなんて、彼はこれっぽっちも気付いていないのだろう。  ——当たり前だ。 「水島も、こっちに変えたらいいじゃん、志望校」 「え?」 「なんでもねーよ」  一度だけ、彼が冗談めかしてそう言った。  俺も彼も、無事に合格した。  嬉しさより悲しみの方が強い合格通知なんて、この世にあるだろうか?  3月6日。まだ肌寒い中、体育館で校長たちの話を聞き、別れの歌を歌い、俺たちはバラバラと校門に向かって歩いた。  高校の卒業式は、誰もが既にそれぞれの未来に目を向けている。深い悲しみに暮れる空気が薄いことが、せめてもの救いだ。 「暇できたら、遊びにこいよ。寺社仏閣巡りツアーやってやるから」 「……あんま興味ない」 「はは、つれねーの」  俺の横で空を仰ぐ彼の顔があまりに陰りなく眩しくて、俺は答える言葉をろくに選びもせず俯いた。 「じゃな」  校門の出口で卒業証書の入った筒を小さく掲げ、彼がいつもの笑顔を見せる。  いつもの笑顔。  最後の笑顔。  ——ずっと好きだった、って伝えたら。  好きでたまらないんだ、と打ち明けたら。  このまま、ずっと一緒にいられるんじゃないか。  この門を出たあとも。  ——やめろ。  この3年間をバケツいっぱいの墨汁で真っ黒に塗り替える気か?  何も答えられずにいる俺を置き去りに、彼はすいと美しい背を見せた。  何の躊躇もなく校門を跨ぐと、彼はそのまま振り向くこともなく淡い日差しの中へ歩み出した。  3年間、片時も胸を離れなかった姿が、滲んで見えなくなる。  彼の中に、俺は残らない。小さな爪痕一つすら。  最後の笑顔すら彼に向けられなかった。別れの一言すら言えなかった。  俺は、ただ肌寒い風に吹かれて校門の前に突っ立っていた。  あの卒業式から、3週間と少し。  暖かい日がだんだん増え、周囲は次第に春へと塗り替えられていく。  部屋の窓から顔を出すと、近くの公園の桜が輝くような花を風に揺らしている。  4月1日。めでたい進学初日に桜が満開を迎えるなんていう心憎い神の計らいも、今の俺にとっては煩わしい皮肉にしか思えない。  彼は、あちらで新生活の準備を整えている頃だろうか。  いつもと変わらない、どこか幼い笑顔で。引っ越したアパートのお隣の住人に挨拶したり、近所の店で自分用のマグカップやスリッパや食器を選んだり、今日の夕飯のメニューを考えたり、面倒くさいから外に食いにいくか、と街を探索に出かけたり……しているのだろうか。  過去の時間など、一秒たりとも思い出す事なく。  自分の中の時間は、一秒も進んでいない。  卒業式の校門前で、がちりと動きを止めたまま。  この針がまた動き出すのは、いつだろう。  それも、なんだかどうでもいい。  あの3年間の、まるで数時間にしか思えないような彼との一瞬一瞬は、もう二度と巡ってこないのだから。  ふと、机のスマホがメッセージの着信を告げる。  のろりと取り上げ、画面を確認した。 『今、何してる?』 「……」  間を開けず、次のメッセージが届く。 『どーせ春休みで暇だろ? 荷解(にほど)き手伝えよ』 「……荷解きって」  こぼれ出した独り言を、そのまま返信する。 『あー悪い。昨日こっちに引っ越ししてさ、今新しい部屋で荷物開けてんだよ。ひとりでだりーし、誰か手伝ってくんねえかなあって。うちの部屋から桜がめっちゃ綺麗に見えるから、ついでに花見できるぞ』 「……」  何を言ってるんだろう。  最後の大事な瞬間に、あんなにあっさり背を向けたくせに。  唇を噛み締めながら返信を打つ。 『……だって、春田はもう、いっちゃったじゃんか。そんな遠いところに』 『は?   遠かったらもう会わねえの? それ何ルールよ?  春休みなんだし、地獄の受験終わったんだし。どうせならしばらくこっちで観光でもすれば?』 「……」  俺の返事を待つような時間が少し開いたが——絶句して突っ立ったままの俺の目の前に、今度は苛立ちを抑えきれないようなメッセージが送りつけられた。 『まさかの既読無視か?  最後の日だってのに最後の最後までお前リアクションうっすいし。死ぬほど迷った挙句こんなクソ恥ずいLINE送ってんだ!! なんとかいえ!!!』  ——ずっと好きだった、って伝えたら。  好きでたまらないんだ、と打ち明けたら。  このまま、ずっと一緒にいられるんじゃないか。  この桜が散った後も。  そんな支離滅裂な思いを押し殺し、俺は震える指で返信を打つ。 『行くよ、明日。  朝イチで』 『——は?   朝イチはやめろ、メーワクすぎる』  HAHAHA!とゴリラが泣き笑いするスタンプがピコンとそこに付け足された。                  〈了〉
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