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 足の先から水面に吸い込まれていった。水たまりの中は、さっきまでリクが立っていた場所を上下さかさまにしたような世界だった。頭上にリクが入ってきた水たまりが、足元には底知れぬ暗い空があった。雨はやんでいた。  リクは水底にゆっくり沈んでいくような速さで空に落ちていった。マンションの照明が深海へのガイドのようにどこまでも続いていた。 「案外、冷静ですね」とシニガミさんもリクとともにゆっくりと落ちてきた。「もっと、取り乱す人も多いんですけどね」 「いや、驚きすぎて、声が出ないだけです」  そうですか、とシニガミさんは事務的に笑った。 「ちょっと、見てほしいものがあるんです」  シニガミさんがそう言うと、リクのからだは移動を始め、マンションの反対側に導かれた。リクはそのとき、自分のへそのあたりから透明なヒモのようなものが伸びていることに気づいた。へその緒があったらきっとこんな感じだろうか。ヒモは頭上の地面に向かって伸びていた。 「もし、おにいさん」とシニガミさんはマンションのベランダに向かって指をさした。「これも仕事なので、おつきあいください」  ベランダから上下さかさまの室内が見えた。窓明かりの中にはリクがいた。まだリクは赤ん坊で、母親の腕の中で今は穏やかに眠っていた。 「あなたは夜泣きがひどかった」  シニガミさんはリクの父親の顔と声で言った。父親の顔は若く、懐かしさをおぼえる。  リクのからだはふたたび深海へと沈み始める。窓明かりに映るリクの姿は少しずつ成長していく。シニガミさんの顔は父親から母親へ、学生時代の友人、出会ったばかりの頃の妻、もうとっくに成人した息子のものに変わっていった。  豊かな窓明かりだった。 「いかがでしたか」  シニガミさんは年老いたリクの顔と声で言った。  マンションの明かりの果てが見えた。足の先から底知れぬ闇の冷たさが伝わってくる。じわじわとからだを伝い、全身の隅々にまで、凍った血液のように渡っていく。リクはいつしか、口も利けなくなっていた。  何者かがリクの足を引いた。正体を確かめようにも足元に顔を向けることもかなわない。リクは人のいのちの根源的な恐怖に触れていた。 「もう十分、もうけっこう。あなたがそう言ったから、だから迎えに来たのに」  先立った妻の顔がリクをのぞき込んだ。リクは必死に声を出そうとして、ようやく絞り出せたのは、弱々しいうめき声だけだった。頬を涙が伝っていった。涙だけは温かかった。  どうすればいい、おれは、どうすれば。 「言ったでしょう、概念的な存在なんです。大切なのはあなたの意志です」  リクは足をばたつかせる、そう、イメージした。 「そうです、あなたの足を引くやつは、蹴飛ばして。いたずらなものに足を引かれないように」  足にあった何者かの感触が消えた。  へそから伸びていたヒモがリクのからだを少しずつ引き上げていく。ヒモは徐々に太くなり、引き上げる力も増していった。 「あなたはもう少し生きてくださいね」  シニガミさんが、妻の声で、言った。  ヒモは地面の水たまりまで続いていた。リクはふたたび水面を通り抜けていく。その直前、リクが足元を見下ろすと、シニガミさんの顔は始めに会ったときのものに戻っていた。 「大変だと思いますけど、ま、頑張って」  シニガミさんは、リクを励ますように笑った。
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