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…結局、俺はいつもより1時間ほど遅れて、やっとこさ帰路についていた。人生色々とは言うけど、まさかなんてことなく続く日常の中で突然こんなことに見舞われるなんて思いもしなかったな。…どうしたもんかなあ。
そんな俺の胸中など露知らず、きょろきょろと周りを忙しなく見回しながら隣を歩く小さな手を引っ張りながら、俺はこれからどうすべきかと頭を抱えていた。
…彼女の話によれば…、どうやら彼女は本当に人間ではないらしく、人間によって奏でられる音楽から栄養みたいなものを得て、生きることができているそうなのだ。とりわけ俺の楽器演奏は彼女とかなり相性が良く(それがなぜなのかは彼女にもわからないらしい。天性のものだと思う、と言っていた)、得られる栄養の量が他と比べて破格なのだという話だった。
『だからこの世界で生きていくためにも、一緒に居られなくなるのは困る。俺はまだ、死にたくない…』
…なんて真剣に言うもんだから、さすがの俺も良心がキリキリと痛みだし、ひとまず彼女をうちに連れて帰ると決めてしまったのだ。…自分でも、この行動の軽率さにはほんと呆れる…。
「咲音―、咲音―」
途方に暮れる気持ちの俺と繋いだ手を引っ張りながら、名前を呼ぶ綺麗な声。現実に引き戻された。
「な、なに…?」
「あれ、なんだ?」
そう言って、彼女が指差したのは夜空を照らす大きな月。丁度今日はまん丸の満月だ。
「というか、地球のこの、一定の時間?で暗くなったり明るくなったりしてるのはなんなんだ?」
「え…」
そうか、もしかして…この娘には一日という概念が無いんだ。朝と夜、そんな当たり前のことを不思議に思っている…並の人間なら、そんなレベルの疑問を持つことはほぼ無いだろう、つまり…
「…ああ…、本当に、地球に来て間もないんだな、君は…」
俺はどんな声でこの言葉を発していたか、わからないくらいだったけれど、彼女は俺の言葉に、不思議そうに首を傾げていた。
「?…だから、ずっとそう言ってるだろ?」
「うん…そうだよね、そうだった…地球に慣れるまでは大変かもね、えーと…」
「ん?…あ、俺はメノ。『音楽と星のくに』から来た、メノだ」
「メノ…」
「…、咲音」
ふいに、メノの声色が変わる。堅い音。限りなく真面目な色を帯びた声だ。ハッとして彼女を見ると、まっすぐな眼差しが俺の視線とバチっと交わった。
「本当にありがとう。咲音のおかげで、俺はまだこの地球で野垂れ死なずに済むよ。…色々、迷惑かけちまうかもしんないけど…」
ふわり、メノの足は地面を離れ、その瞳は俺に近づく。そして、信じられないほどに美しい微笑みが、そこに。
「咲音と会えてよかった。ありがと」
…俺は果たしてどんな顔をしていたのか、わからないけど…わからないけど、もうこうなったら俺も腹をくくるしかない。警察でもなんでも、俺を捕まえに来るまでは、この娘をきっと、俺が守らなくては…。
…こうして、冴えない平凡独身社会人の俺・簾内咲音と、宇宙から来た謎の美少女・メノの、奇妙な生活が始まったのである…!
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