第3話 怨恨の幽鬼(1)

1/1
前へ
/32ページ
次へ

第3話 怨恨の幽鬼(1)

 お前は逃げろ――その言葉に、メイシアの心臓は氷の矢に貫かれたような痛みを感じた。  彼女はポケットに手を入れる。そこにはルイフォンの携帯端末があった。  心臓から全身が凍りついていく恐怖を前に、先刻のルイフォンとの遣り取りが彼女の脳裏を走り抜けた――。 「ここに隠れてやり過ごすぞ」  ルイフォンが、扉の壊れた建物の前で立ち止まった。  街灯の硝子でタオロンを足止めし、メイシアを抱きかかえて路地裏へ逃げたのちに、再び歩き出したときのことである。  割れた窓から差し込む光を頼りに、ルイフォンは建物――廃屋と言ったほうがしっくり来るような家の中を進んだ。  遅れないように、と慌てながらメイシアも続くと、途中、足元に転がる何かにつまずく。とっさに、壁に手を付けば、ざらりとした砂のような埃の感触。窓も扉も用をなしていないにも関わらず、奥に進めば閉めきった空間特有の、むっとするような空気に満ちていた。  ルイフォンは階段の安全を確かめると、メイシアを手招きした。そうして二階のひと部屋に腰を落ち着けると、彼は尻ポケットから、通話状態になったままの携帯端末を取り出した。何も言わずに通話を切り、メッセージを送る。 『斑目タオロンに襲われたが、取り敢えず逃げた。隠れているから通話は切る。GPSの地点まで迎えに来てくれ』  それだけ書き込むと、ルイフォンは「これを預かってくれ」と言って、携帯端末をメイシアに手渡した。  反射的に受け取った端末を、メイシアはじっと見つめた。 「どうした? 珍しいものではないだろう?」  黙ったままのメイシアに、ルイフォンが不審な顔になる。 「それとも、貴族(シャトーア)のお嬢さん育ちじゃ、こういうものは持たせてもらえなかったのか? ……いや、没収したお前の荷物に入っていたな……?」 「……ルイフォンが、私にこれを渡す意味を考えていました」  メイシアは真っ直ぐにルイフォンを見上げた。その瞳には、非難めいた色合いがあった。 「これは『味方に位置を知らせる端末』ですよね。何故、ルイフォンが持たないのですか?」  詰め寄る彼女に、ルイフォンは一歩たじろぐ。 「え……?」 「……私と別行動をするつもりなんですね」 「まぁ、場合によれば……」 「そのとき、ルイフォンは、私のために危険な目にあっているはずです」 「……可能性は否定しない」 「それでは、お預かりするわけにはいきません」  メイシアは、携帯端末の上下を、きちんとルイフォンのほうへ向け直し、両手で丁寧に差し出した。 「いいから、持っていろ」 「駄目です!」  凛とした声に、ルイフォンは一瞬、気圧された。  だがすぐに、すっと目を細める。  今まで一緒に行動してきて、彼女の並ならぬ芯の強さには驚嘆してきた。しかしいざ、乱闘となったら、お荷物にしかならない。そんなこと、少し考えれば、すぐに分かることだ。  メイシアの聡明さを認めていただけに、失望も大きい。ルイフォンは腹立たしげに顎をしゃくりあげた。 「強情な奴め……!」  感情でものを言っていたら、凶賊(ダリジィン)は務まらない。所詮、世間知らずのお嬢さんというところか。  苛立ちもあらわにルイフォンが舌打ちをしたとき、メイシアの唇が震えていることに彼は気づいた。 「……正直に言えば、とても怖いです。でも、そういう『世界』なんだ、と思いました」  メイシアが屋敷を訪れた直後、ミンウェイは『世界が違う』と言った。そのときのメイシアは、貴族(シャトーア)凶賊(ダリジィン)で違うのは当たり前ではないか、とその程度にしか思っていなかった。けれど、彼女は身をもって知ったのだ。 「危険なことをしないでください、と、言いたいですが、言ってはいけないのも分かっています。もとより、私自身が鷹刀に武力を求めたのですから……」  メイシアは唇を噛み、彼に携帯端末を押し付け続けた。手は震え、怯えた顔をしつつも、潤んだ瞳は譲るつもりはないと訴えていた。一心に前だけを見つめて――。 「……でも、私は鷹刀で暮らすことを選んだんです。だから、自分ひとりだけ、安全なところに守られているなんて、嫌です!」  ――その目を、ルイフォンは知っていた。  それは、彼と彼の父を魅了した目だった。 「……ああ……、そうだったな」  彼は、癖のある前髪をくしゃりと掻き上げ、口元を綻ばせる。 「昨日、初めて会ったときと同じだ。今にも泣き出しそうな顔をしているくせに、お前は一歩も引かない。――お前は、そういう奴だ」  ルイフォンはメイシアから携帯端末を受け取ると、手際よく画面を操作していった。鼻歌でも歌いそうなほどに、ご機嫌な様子で画面に指を走らせる。 「虹彩写真を撮らせてくれ」  そう言って、メイシアに携帯端末を向けた。彼女がきょとんと彼を見たときには、もう撮影は終了していた。 「それじゃ、改めて。これを持っていてくれ」  ルイフォンが再び手渡そうとするので、メイシアは押し戻す。 「だから、私は……!」 「違うって」  彼は猫のような目をすっと細めた。 「この端末はな、俺以外の人間が操作しようとしたら、自動的にすべてのデータを消去するように仕掛けてある。けど、お前にも使用権限を与えておいた」 「どういうことでしょうか……?」 「いいか? 『俺とお前が別行動をしなきゃいけない事態』になったときには、俺にとってお前は足手まといにしかならない。想像できるよな?」 「それは……その通り、です……」 「だから、そのときは逃げろ。逃げて、この端末を使って屋敷に連絡してくれ。親父に状況を説明して、指示を仰いで欲しい」 「……」 「俺は情報屋だ。情報を制する者が勝つと信じている。つまり、だ。その場にいたら邪魔なだけのお前を、戦力に変える」  メイシアは、納得したわけではなかった。けれどルイフォンが言うことはもっともだった。  こうして、彼女は携帯端末を預かったのだった。
/32ページ

最初のコメントを投稿しよう!

24人が本棚に入れています
本棚に追加