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第3話 怨恨の幽鬼(2)
ルイフォンの足手まといになってはいけない。だから、ここは彼の指示通りに逃げるべきなのだ。
けれど――ルイフォンもまた逃げるべきなのだ。自分たちの目的は、相手を倒すことではないのだから。
メイシアは痛む心臓を押さえるように、ポケットから出した手を胸に当てた。
ルイフォンは彼女を守るために、自分の身を危険に晒す。今だってこうして、彼女の前に立っている。
彼の背中で一本に編まれていた髪は、飾り紐を失い緩やかにほどけつつあった。癖のある猫っ毛が広がり、まるで〈蝿〉から彼女を隠そうとしているかのようだった。
メイシアは、ぎりりと奥歯を噛みしめた。
いったい何度、この後ろ姿を見ただろう――?
「……」
彼女は地面に張り付く足を引き剥がす。じわじわと汗ばむ体に力を込めると、ルイフォンの影から決然と抜け出した。そして、〈蝿〉の前へと歩を進める。
「メイシア!?」
ルイフォンの狼狽の声にも構わず、彼女はまっすぐに〈蝿〉を見上げた。長い黒髪が、ふわりとなびく。
「あなたは、イーレオ様に恨み骨髄とのご様子とお見受けいたしました」
予期せぬことに、わずかな動揺を見せた〈蝿〉だが、すぐに口元に嘲笑を浮かべる。
「おや? 腰を抜かしていた小娘が、いきなり何を言い出すかと思えば……」
「つまりあなたは、イーレオ様と直接、相見えずに、か弱き私たちを傷めつけることで、卑屈な自尊心を満足させようとしていらっしゃるわけですね?」
メイシアは微笑んだ。聖女のような顔が、挑発的に妖しく歪んでいく。
〈蝿〉の顔色が変わった。
「あなたは過去に、イーレオ様に負けたのでしょう?」
婉然とした笑みは、娼館の女主人シャオリエから学んだものだった。
「……黙れ、小娘ぇ! 貴様にっ、何が分かるっ!!」
地底から響いてくるような低い声に怒りを煮えたぎらせ、〈蝿〉が吠える。
「ルイフォン!」
メイシアは叫ぶと同時に踵を返し、思い切り地を蹴り出した。華奢な彼女なりの、精一杯の脚力――否、全身全霊の力をもって走りだす。
そのとき、〈蝿〉は我を忘れた。むき出しの殺意をメイシアに向け、翻る黒髪もろとも、彼女を袈裟懸けにせんと、白刃を煌めかせる。
「メイシア!?」
自分が囮になるから逃げてと、彼女は言っているのだろうか? そんな馬鹿な、とルイフォンの心臓が縮み上がった。
そんな危険を冒したところで、か細い彼女の足では、あっという間に、凶刃に捕らえられてしまうだろう。彼が逃げる暇もなく――。
そのとき、ルイフォンは、はっとした。
彼の目の前に、〈蝿〉の無防備な背中があった。
〈蝿〉の瞳は、メイシアしか映していない。――そこに生まれる隙を勝機に変えるよう、彼女は彼を信じて託したのだ。
頭で理解するよりも先に、体が動いた。
ルイフォンは猛進した。野生の獣のようにしなやかに疾る。
袖口に入れていた右手はブラフ。毒の釘は一本しか作っていない。
護身用のナイフは、タオロンを足止めするために街灯に投げて、そのままだ。
だから、ルイフォンは跳んだ。強く踏み出した片足をばねに、まるで重力を無視したかのように、ふわりと。
軽やかに浮かび上がった体から、踵が勢いよく伸び、〈蝿〉の頚椎を狙う――!
「……っ!」
直前で、気づかれた。
〈蝿〉が刀を旋回させる。ルイフォンを斬り捨てようと、鋭い銀色の円弧が迫る。
「くっ――!」
ルイフォンは空中で体をひねった。蹴りの軌道が、わずかに上方にずれる。そのすぐ下を〈蝿〉の凶刃が駆け抜けた。
神業ともいえる体術で刃を逃れたルイフォンは、落下の流れに乗りながら〈蝿〉の横面に蹴りを入れる。
「……っ」
低い呻き声。〈蝿〉の口元から、ひと筋の血が垂れた。
からん、と。刀を取り落とす音が響いた。
……しかし、〈蝿〉が倒れることはなかった。
「甘かったか……!」
ルイフォンは舌を鳴らした。
間髪おかずに、彼は着地の低い姿勢から、肘で〈蝿〉の鳩尾を突き上げた。
手応えはあった。
だが軽い。明らかに浅い。脳震盪を起こしていても不思議ない状況下で、〈蝿〉は体を引いて直撃を避けたのだ。
ルイフォンは、足元に転がる〈蝿〉の刀を、咄嗟に遠くへと蹴り飛ばした。刀は、くるくると円を描いて地面を滑り、薄汚れた壁にぶつかって止まる。
今なら逃げられるか……!?
しかし、ルイフォンの直感が告げた。不用意に背を向けることは危険であると――。
「あなた方を少々侮りすぎていたようですね」
〈蝿〉の声が低く響き、体が一瞬、緩やかに浮く。軽く跳躍しただけであるが、その次の刹那、電光石火の早業でルイフォンの腹を打ち抜いた。
「ぐはぁ……」
ルイフォンは、自分の内臓が飛び出たかと思った。呼吸が止まる。
地獄の苦しみに足元がおぼつかず、膝から崩れ落ちる。意識はあるが、強い吐き気に思考が奪われる。体を、動かせない。
〈蝿〉が嗤う
彼は音もなく歩き、ルイフォンに蹴り飛ばされた刀を拾ってきた。そして、蔑むようにルイフォンを見下ろした。
ルイフォンは唇を噛んだ。
多少の武術を学んだところで、その道で生きている人間の足元にも及ばないことは分かりきっていた。彼は凶賊に関わる者とはいえ後方部隊であり、巻き込まれた際に降りかかる火の粉を払う程度の力しか持ってない。
それでも無抵抗にやられるつもりなどなかった。できるだけ長く〈蝿〉を引き止めれば、その分メイシアは遠くまで逃げられるのだ。
ルイフォンは、好戦的な目で〈蝿〉を見上げた。
しかし、〈蝿〉が遠くに向かって「小娘!」と、声を放った。
「そのへんに隠れているのは分かっていますよ? この小僧の命が惜しければ、出てきてもらいましょう」
ルイフォンは顔色を変えた。メイシアの性格を考えれば、すぐそこの角あたりで様子を窺っていて当然だった。
吐き気を抑え、ルイフォンは叫ぶ。
「来るな、メイシ……!」
だが、それも〈蝿〉の強烈な蹴りによって遮られた。ルイフォンは地面に叩きつけられ、勢いのままに砂地を滑る。ちょうど先程〈蝿〉によって切り飛ばされた上着のボタンのように、無様に地を転がった。
〈蝿〉はメイシアの気配を探った。必ず近くにいるはずだった。あの小娘は、お上品なタイプの貴族の娘に見えた。身分の低い者を虫けらのように扱う『捕食者』ではない。愚かなほどにどこまでも善人で、彼のような者にとって非常に好都合な『被捕食者』であると。
メイシアは――姿を見せなかった。
寂れた廃墟の道には、残飯を荒らす鴉すらいない。
ただ乾いた砂塵だけが漂っていた。
〈蝿〉は哄笑した。
「可哀想に、あなたは単なる捨て駒だったんですね。貴族の小娘にしたら当然、ということでしょうか?」
〈蝿〉としても予想外であったが、これはこれで愉快であった。
「残念でしたね。あなたは、あの小娘相手に随分、鼻の下を伸ばしていたようですが……。女は怖い、ということですか」
「あいつは賢い奴だ。お前の挑発に乗るような、愚かな真似をするわけないだろう」
ルイフォンは〈蝿〉に向かって唾を吐く。……だが、〈蝿〉にやられた腹とは別に、胸の奥がちくり痛んだ。
「ともかく、仕方がありませんね。あなたはさっさと片付けて、小娘を追うことにしましょう」
〈蝿〉は、銀色の刀身を頭上、高くに掲げた。激しい痛みの中でそれを見上げたルイフォンの目に、小さな花をあしらった鍔飾りが映る。この男の持ち物にしては妙に綺麗だ、そんな的外れな感想を、彼は抱いた――。
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