第3話 怨恨の幽鬼(6)

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第3話 怨恨の幽鬼(6)

「で? 俺は何をすればいい? 内通者にでもなればいいのか?」 〈(ムスカ)〉は肩をすくめ、白髪頭を左右に振った。 「まさか。あなたのような悪戯な子猫を手元から放したら、帰ってこないに決まっているじゃありませんか」  嫌らしい笑みを漏らす〈(ムスカ)〉に、ルイフォンは息を呑んだ。  まただ――。 〈(ムスカ)〉がこの路地に現れたときも、彼はルイフォンのことを『子猫』と呼んだ。確かにルイフォンは、〈(フェレース)〉の名を持つクラッカーだ。だが、〈(フェレース)〉の正体は一般には知られていない。鷹刀一族の中でも、ごく一部の者のみが知る極秘事項なのだ。  これは偶然か…………否。 「……そうか。お前の『ムスカ』という名は、ラテン語の……確か、『蝿』」 〈(フェレース)〉と同じ規則の暗号名。つまり――。 「〈七つの大罪〉の関係者だな」 〈(ムスカ)〉は、ただ口の端を上げた。是とも非とも言わずとも、それだけで充分な答えだった。  ルイフォンの脳裏に、かつて〈(フェレース)〉を名乗っていた母の姿が浮かび上がる。 「〈七つの大罪〉の〈悪魔〉が、あんたの前に現れることがあったら……逃げなさい」 「〈(フェレース)〉の血を引くあなたを、刀の錆にするのは惜しいんですよ」 〈(ムスカ)〉は懐から小瓶を出した。透明な瓶の中で、透明な液体が揺れている。陽光を浴びて〈(ムスカ)〉の掌に透明な影を作るそれは、蓋を開けなくても危険な香りがした。 「少しの間、眠るだけです」  ――ここで拒否をすれば、それまでだろう。  ルイフォンは視線を下げた。うつむきがちの頭から癖のある前髪が流れ、目元の表情を隠す。  この流れのままで時間を稼ぐのも、そろそろ限界のようだ。猫のような目が、すぅっと細まる。〈(ムスカ)〉の言う『悪巧み』の目だ。 「分かった。今の俺の立場からすれば、そのくらい仕方ないだろう」  そこでルイフォンは一度言葉を切り、顔を上げた。 「ひとつ、教えてほしい」 「おや? あなたは質問できるような身分でしたっけ?」  そういう〈(ムスカ)〉の揶揄も無視して、ルイフォンは続ける。 「お前たちは、藤咲メイシアに何をさせたかったんだ? お前の仲間のホンシュアが彼女を鷹刀に送り込んだくせに、今は彼女の死体を欲しがっている。訳が分からない」 〈(ムスカ)〉は、無言でサングラスの目をルイフォンに向けた。切り出し方を誤ったかと、ルイフォンの背を汗が流れる。  彼は慌てて、負けん気の強そうな十六歳の少年の瞳を作り、〈(ムスカ)〉を睨むように見上げた。 「……それとも、これはすべて演技なのか? 彼女は俺たちを掻き回す役割を持った、斑目の手の者だったのか? 彼女が俺に向けた顔はすべて嘘だったのか?」 「ほう、なるほど。憐れな思慕の念を昇華するためには、小娘を悪者にしたいわけですね」  唇を噛んで押し黙るルイフォンに、〈(ムスカ)〉は優越感に満ちた愉快げな声を上げた。 「愚かなる道化師に免じて、教えてさしあげましょう」  まるで悪魔のような、美しく優しく残忍な微笑みを見せ、〈(ムスカ)〉がゆらりとルイフォンの顔を覗き込んだ。 「あの娘は何も知りませんよ。ただ踊らされているだけです。流石に貴族(シャトーア)ですから、当初の筋書きでは、殺害などという面倒ごとにはせずに、無事に実家に戻されるはずでした。その約束で、藤咲家を納得させましたしね。――それを、他ならぬ、あなたが計画を崩してくれたんですよ」 「な……!?」 「あの駒は、鷹刀の屋敷に置いておく必要がありました。けれど、そこから動かされてしまったのなら、無理にでも運ぶしかないでしょう?」 〈(ムスカ)〉が声を立てて嗤う。  それが呪いの言葉でもあるかのように、ルイフォンの耳から入って脳を侵食し、彼の神経を揺さぶった。ルイフォンの顔から、血の気が引いていく。 「……さて、お喋りもこのくらいにしてください」 〈(ムスカ)〉が、音もなく一歩近寄った。砂地に座り込んだままのルイフォンに、黒い影が落ちる。  彼は、透明な小瓶を手に、ゆっくりとしゃがみ込むと、すっとルイフォンに差し出した。促されるままに受け取ったルイフォンの掌の中で、陽光を乱反射させる硝子の輝きが、ルイフォンの思考を拡散させる。  この事態は、俺が招いたのか――? 「少し、時間を取り過ぎましたね。いくら小娘といえど、それなりの距離を行っているはず……応援を呼びましょう」 「応援?」   サングラスの奥で、〈(ムスカ)〉の眼球が人知れず動いた。混乱するルイフォンの様子を、冷徹に観察する。 「斑目の若い衆ですよ。色欲に眩んだ彼らなら、きっと鼻が利くでしょう」 〈(ムスカ)〉は、充分に含みをもたせ、口の端を上げた。  タオロンの部下たち――メイシアを前に涎を滴らせていた、あの獣のような男たちのぎらつく眼光が、ルイフォンの記憶に蘇る。 「メイ、シア……」  ルイフォンの喉から、普段のテノールより遥かに低い音階が漏れる。 〈(ムスカ)〉が懐から携帯端末を取り出す。  そのバックライトが光った瞬間、ルイフォンは、自身の血液が沸騰するような錯覚を覚えた。  気づけば、小瓶を投げ捨て、地を蹴っていた。
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