第3話 怨恨の幽鬼(7)

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第3話 怨恨の幽鬼(7)

(ムスカ)〉を止める!  何者も、メイシアを追わせはしない――!  追い込まれた獣の、無謀としか言いようのない、鳩尾(みぞおち)を狙った一撃。  自分を守ることを完全に放棄した、他人を守るための衝動。  向かってくるルイフォンに対し、〈(ムスカ)〉は涼しい顔で、ひらりと身をかわした。渾身の力を込めた拳は、虚しく相手の胸元をかすめ、上着の繊維にわずかに触れたのみ。 〈(ムスカ)〉は、まるで児戯だと鼻先で笑い、そのまま流れるような一連の動作の中で抜刀し、細い刃を宙に滑らせた。 「……っ!」  凶刃の煌めきに、ルイフォンの防衛本能が警鐘を鳴らす。彼は反射的に、思い切り猫背になって飛びすさった。刹那の差で、〈(ムスカ)〉の刀が、わずかに空いた虚空を薙ぐ。 「……ほぉ? 思いのほか、器用ですね。本物の猫のようですよ」  肩で息をするルイフォンに、〈(ムスカ)〉が嘲りまみれの賞賛を贈る。  しかし彼は、ルイフォンに安堵の暇など与えはしなかった。 「ぐはっ……!?」  胃への強い打撃の感触。〈(ムスカ)〉の足先が腹にめり込み、ルイフォンの細身の体躯が空を舞った。  ……そして、それを危険と認識する余裕すらなく、背中から地面へと叩きつけられる。衝撃の反動に、彼の体は数度、砂地を跳ね返った。  ルイフォンは脳髄が揺さぶられるような、強烈な目眩を覚えた。 「交渉決裂ですね。あんな小娘に目の色を変えて……。愚かなことです」  地を転げ、もがき苦しむ彼に、〈(ムスカ)〉の嘲笑が落ちる。揺れる肩に合わせ、悦に入る白髪頭もまた、小刻みに揺れる。  ――その動きが、途中で止まった。  一転して、〈(ムスカ)〉の様相が変わる。 「……一体なんの真似ですか……?」 〈(ムスカ)〉の疑問は、ルイフォンに投げかけられているわけではなかった。まだ姿を現していない人物に向けられていて――勿論、小さな呟きは遠くにいる相手に聞こえるわけもなく、だから、それはただの独り言に過ぎなかった。  転がっているルイフォンには目もくれず、〈(ムスカ)〉は、その人物を迎えるべく(きびす)を返す。彼らがこの路地に入ってきた方向――ルイフォンがタオロンから身を隠すために曲がってきた、その角に、〈(ムスカ)〉は不気味な薄ら笑いを向けた。  やがて、苦痛にあえぐルイフォンにも、その気配を感じることができた。  はあはあと、荒い呼吸。  同時に聞こえてきた足音は、途切れそうなほどに、おぼつかない。  もしや、と思った瞬間に、その影が路地の口に現れ、ルイフォンは目を見開いた。激痛に声を出せない彼の、心が叫ぶ。  メイシア――!  今にも倒れそうな――否、既に途中で転んでいたのか、膝は擦り剥き、肘には血が滲んでいる。  長い黒髪は風を受けて乱れ舞い、前髪は汗で額に張り付いている。彼女が全力で駆けてきたことは、遠目にも明らかであった。  彼女が逃げたのは、ルイフォンから見て後方の道。だが、今、彼女がいるのはルイフォンの前方――逃げたと見せかけて、一本隣の通りから回りこんだのだ。  メイシア、来るな――!!  ルイフォンの思いを裏切るように、彼女の姿が近づいてくる。一刻を争うように、一心に走る。  そして、彼女は速度を落とさずに体を屈め、地面に落ちていた『それ』に、飛びつかんばかりに手を伸ばした。白魚のような手にまったく不釣り合いな、無骨な『それ』を、しっかりと握りしめる。 〈(ムスカ)〉が、「ほぅ?」と、眉を上げた。 「あなたが、それで戦うおつもりですか?」  ――『それ』は、タオロンの大刀だった。筋弛緩剤でタオロンを倒したあと、彼の刀は、そのへんに放置したのだ。小型ナイフならともかく、大刀では、ルイフォンが奪って自分の武器として扱うには無理があったためだ。  メイシアは、大刀の柄をしっかりと握りしめ、そのまま走り続けようとし……よろめいた。彼女が手にするには重すぎるのだ。  それでも、メイシアは前に進んだ。  大刀の切っ先は地面から浮くことはなく、彼女に引きずられるたびに地を削り、小石を弾いた。  もし〈(ムスカ)〉がその気になれば、一瞬とは言わないまでも、数瞬のうちにメイシアの首をはねることが可能だったろう。だが、鬼気迫る彼女の様子に興を覚えたのか、〈(ムスカ)〉は動かなかった。ただ、嗤いながら揶揄する。 「その細腕で、何ができると言うのですか?」  そんな問いかけにも、メイシアは耳を傾けない。  彼女が向かう先――。  そこに、後ろ手に縛られ、転がされているタオロンがいた。  ルイフォンは息を呑んだ。彼は彼女の意図を察したのであるが、それでも、まさかとの思いが拭い切れない。  ついに、メイシアはタオロンの元へと辿り着いた。彼女の美しい顔は汗にまみれ、肩で息をしていた。  メイシアは、足元に横たわるタオロンを見下ろし、ゆっくりと息を吐いた。そして、次に思い切り大きく息を吸うと、両手で大刀の柄を握りしめ、信じられぬことにそれを持ち上げた。  ルイフォンと〈(ムスカ)〉が目を疑う。  メイシアが、力強く〈(ムスカ)〉を睨みつけた。そして、叫ぶ――。 「〈(ムスカ)〉! ルイフォンの傍から離れてください! さもなくば、斑目タオロンの命は保証しません!」  メイシアの凛とした声が、荒涼とした通りに響いた。
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