第1話 忍び寄る魔の手(2)

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第1話 忍び寄る魔の手(2)

 ルイフォンは自身の耳を疑った。  ――メイシアの異母弟、藤咲ハオリュウが、藤咲家に戻された……。 「馬鹿な!? メイシアの異母弟は、斑目にとって大事な人質だったはずだ。それを手放すメリットがどこにある!?」  予想外の情報に、ルイフォンは思わずトンツァイに詰め寄った。いつもなら眇めた調子の瞳が、大きく、かっと見開かれている。 「俺も、さっき報告を受けただけだ。詳しいことは何も……」  トンツァイもまた、苛立たしげに首を振った。部下からの続報を待っているのだが、まだなんの連絡もなかった。  相手の思惑がまるで読めないことに焦燥感を覚え、ルイフォンは乱暴に前髪を掻き上げた。 「ちょっと、お前たち。少しは冷静になりなさいよ」 「なんだよ、シャオリエ!」  呑気にすら聞こえる高飛車な声に、ルイフォンが噛み付いた。掴みかからんばかりの剣幕を、しかしシャオリエは軽く掌で押し止める。 「対価よ」  シャオリエはアーモンド型の瞳に好戦的な色合いを載せ、唇を妖艶に動かす。 「人質が、人質としての役目を果たしたのよ」  その言葉に、ルイフォンが、はっと表情を変えた。 「つまり、藤咲家は斑目の要求を飲んだ……?」 「そういうことね」 「じゃあ、藤咲家は婚礼担当家を辞退したのか?」  そんなことはあるまい、と思いながら、ルイフォンが口にすると、シャオリエが嘲笑を浮かべながら、(かぶり)を振った。襟元まで垂らした後れ毛が軽やかに揺れる。 「斑目は、藤咲家に別の要求を出したのよ」  そう言ってシャオリエは、ルイフォンの背後で遠慮がちに控えていたメイシアに視線を向けた。彼女は、鷹刀一族の屋敷に舞い込んできた小鳥だった。 「メイシアか! メイシアを送り込むことに協力したから……!」  ルイフォンは舌打ちを鳴らした。  後手に回っている。  改めてそう思わざるを得なかった。 「屋敷に戻る」  言いながら、ルイフォンは携帯端末を操り、暗号化された報告文を父に送っていた。盗聴や改竄を避けるため、重要な報告は直接行うのが常であるが、今回は一刻も早く情報を共有しておきたかった。  メイシアを鷹刀一族の屋敷に置くことが、斑目一族にとって、どんな利益に繋がるのか。  用意しておくべきものは何か。警戒しておくべきことは何か。  胸騒ぎがルイフォンの体を突き動かす。 「スーリン! タクシーを呼んでくれ」  成り行きで居合わせてしまい、居心地悪そうにグラスを拭いていたスーリンに声を掛ける。彼女は、「はい!」と答えると、電話に向かった。  それからルイフォンは、後ろにいるメイシアに言う。 「メイシア、帰るぞ!」 「……」 「…………メイシア?」  反応を返さないメイシアに疑問を覚え、ルイフォンは振り返った。  彼女は胸の前で両手を合わせ、何かに耐えるように、ぎゅっと目を瞑っていた。 「メイシア? どうした?」 「ハオリュウ……。無事、だった……」  安堵と虚脱が入り混じったような呟きを聞いた瞬間、ルイフォンは冷水を浴びせられたかのような感覚を覚えた。 「よかった……。本当に……よかった……」  彼女は俯き、肩を震わせた。声に出して言ったことで、思いが溢れ出したのだろう。その顔が涙で彩られていることは、長い髪で隠していても分かった。 「あぁ……」  ルイフォンの口から、深い息が漏れた。  ――彼女の心を置き去りにしていた。  小刻みに揺れる黒髪を見ながら、ルイフォンは恥じるより先に、後悔をした。  彼女の大切な異母弟が帰ってきたのだ――。  なのに、想定外の事態に直面して、彼の頭の中で藤咲ハオリュウは駒のひとつになってしまっていた。 「……メイシア」  気づいたら、彼は彼女の名を呼んでいた。  そして、まったく考えてもいなかった言葉が、思わず口からこぼれ落ちていた。 「異母弟に、逢いたいか?」 「……っ!」  メイシアが、ぱっと顔を上げた。わずかに口を開き、信じられないものを見るかのような大きな瞳で、じっとルイフォンを見詰める。  しかし、彼女は視線を落とすと、口をきゅっと一文字に結んだ。  ゆっくりと(かぶり)を振る。 「お気遣い、ありがとうございます。けれど、私はハオリュウが無事と知れただけで充分です」  そう言って、彼女は再び顔を上げた。  小さな桜の蕾が精一杯、綻ぶように、メイシアが笑う。薄桃色の花びらは淡く透き通るようで、脆く儚い。  彼女は「屋敷に戻りましょう」と言いながら、ルイフォンの視線を避けるようにして目尻を拭った。  その仕草が彼の感情に火を点けた。 「違うだろ!」  ルイフォンは、メイシアの濡れた指先を捕まえるかのように、彼女の手首を掴んだ。 「きゃっ」  突然のことにメイシアは悲鳴を上げ、捕らえられていないほうの手で、無意識にルイフォンの胸を突き飛ばす。  しかし、そんな可愛らしい反撃は、ルイフォンにとっては小鳥の羽ばたきがかすった程度のものでしかなかった。掴んだ手首に更に力を込め、メイシアの心を覗きこむように、彼女の顔に自分の顔を近づけた。 「お前は、異母弟に逢いたいはずだ」  ルイフォンのテノールが断言する。険しい口調であるにも関わらず、その声はメイシアの耳に優しく響き、心を揺さぶった。  メイシアは、ルイフォンから目を逸らすことができなかった。  望んでもいいのだろうか。それは我儘というのではないだろうか――。 「イエスか、ノーかで答えてくれ。お前は異母弟に逢いたいか?」  ややきつめの猫のような目が、メイシアをじっと捉えていた。  見極めた獲物を逃すことのない、鋭い目線。  けれど、その瞳の中には、優しい彼の心が入っていた。  つぅっと、メイシアの頬を涙が伝った。
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