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第1話 忍び寄る魔の手(4)
タクシー運転手には藤咲家の近くにある高級レストランの店名を告げた。
寄り道ではあることには間違いないが、帰りに繁華街をぶらつくつもりであったのを考えれば、遅くなるというほどのことでもないだろう。運が良ければ、斑目一族の動向を何か得られるかもしれない。
そんなことを考えながら、ルイフォンは携帯端末に指を走らせた。藤咲家に行くことを、屋敷に連絡しておく必要があった。運転手の手前、音声通話は使わない。会話の端から凶賊と悟られるのは、あまり得策ではないからだ。
並んで後部座席に座っているメイシアが、真横から「あら……?」と、声を漏らした。
「運転手さん、失礼ですが、お店を勘違いしてらっしゃいませんか? 反対方向だと思うのですが……」
ルイフォンは携帯端末から顔を上げ、自分の失態を悟った。
タクシーは裏路地を抜け、人けのない通りを走っていた。そして、その先は貧民街であることを彼は知っていた。
「あぁ、近道なんですよ。私たちがよく使う、裏道というやつです」
「そうでしたか。過ぎたことを……申し訳ございません」
そんなふたりの会話を聞きながら、ルイフォンは車内に貼られた運転手の顔写真とバックミラーに映る男の顔を見比べた。そして、今ハンドルを握っている男が、制帽を目深にかぶっている意味を解する。
――偽者……。
ルイフォンは戦慄した。彼は、自分の注意力の欠如に憤りを覚えながら、「メイシア」と呼びかけた。
「はい」
無邪気に応えるメイシアに、ルイフォンは体をにじり寄せた。そして躊躇なく、彼女の肩口へと手を伸ばす。
「きゃっ」
「シートベルトは締めておこうぜ?」
ルイフォンはメイシアを抱きすくめるようにして、彼女の肩の上にあるバックルを掴み、ショルダーストラップを引き出した。
「え? あ、そうですよね。自分でやります」
どこか、ほっとしたような彼女の首元に、彼はふっと吐息をかける。
「きゃあ!」
真っ赤になって、メイシアが慌てふためく。
「な、何を……!」
メイシアの可愛らしい抗議の声は、しかし、彼の真剣な表情を前に、尻窄みに消えていった。彼女にちょっかいを出すときに見せる、いたずら猫の顔は、そこにはなかった。
ルイフォンは口元をきつく結び、額に薄っすらと汗を浮かべていた。シートベルトを締めると言ったくせ、バックルは手の中に握ったまま、固定しない。狭い車内で腰を浮かせ、目線はメイシアにありながらも、彼女のことは見ていなかった。
彼の視線が横へ流れた。
周りの様子を探っている――そう感じたメイシアは、黒曜石の瞳を一度だけ瞬かせて口をつぐんだ。
路地を曲がるところで、運転手の注意が外へとそれた。
その瞬間、ルイフォンは扉のロックに手を伸ばした。解除音に運転手が怪訝な表情を浮かべたのと同時に、その横顔を力一杯、殴りつける。
「っ……!?」
突然の痛みに声を上げる運転手のこめかみを、今度は正確に裏拳で狙う。脳を揺さぶる衝撃に運転手は意識を失い、そのままハンドルに倒れこんだ。
悲鳴を上げるメイシアを抱きかかえ、ルイフォンはドアノブに手を掛けた。開いたかと思った瞬間に、扉は大きく風に煽られる。そのまま振り落とされるようにして、ふたりは地面に投げ出された。
メイシアだけは傷つけまいと、ルイフォンは彼女の華奢な体を腕の中に庇う。金色の鈴が、まるで彼女を守るかのように、大きく弧を描いた。
「くっ……」
背中が叩きつけられる衝撃に、彼は声を漏らす。だが、それよりも離れていく車体に目を奪われた。
制御を失った車は暴走する――。
道路脇の外壁をこすり上げ、壮大なる不協和音を路地裏に響き渡らせる。
古ぼけた街灯にぶつかり、軽やかに一回転――しかし、派手やかなる舞台を繰り広げるには道幅は狭く、すぐに閉じられたシャッターに激突した。
フロントガラスの花火を打ち上げ、フィナーレを飾る……。
倒れこんだ姿勢のまま、腕の中で言葉を失っているメイシアに、ルイフォンは声を掛けた。
「大丈夫か?」
目を丸くしたまま、真っ青な顔でメイシアが頷く。黒髪が一筋、取り残されたかのように頬に貼り付いていた。
「ルイフォン、あの運転手は……?」
「敵だ」
端的に、彼は答える。
「どういうこと、でしょうか……」
「分からない。だが、何者かが運転手に成り代わり、俺たちをどこかに連れ去ろうとしていた」
メイシアの顔に怯えが走る。見えない魔の手が、ゆっくりと忍び寄ってきていた。
ルイフォンは周囲に視線を走らせる。ともかく、彼女を守らなければならない。
「とりあえず、ここから離れよう。立てるか?」
「はい」
走行中の車から飛び降りたにも関わらず、ふたりとも奇跡的にかすり傷であった。ルイフォンの上着の背が、擦り切れているのだけは仕方がない。
せめてものと土埃をさっと払い、ふたりは足早に、この場を立ち去った。
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