4人が本棚に入れています
本棚に追加
「出て」
冷静な先生の声が音楽室に響いた。
今は合奏中。先生が出て、というときはきちんと吹けていない時か譜読みができていない時。音楽室を出てできるまで帰ってくるな、という合図だ。
僕は、ユーフォニアムを抱えると譜面をもう片方に持つ。
「失礼します」
かろうじて出たカスカスの声は先生に不満を持った僕の心が浮き出たみたいだった。
音楽室から少し離れた廊下で僕は譜面を立て掛けた。
目に写ったのは連符。
それもメロディーだ。
音楽室からはメロディーの聞こえない音楽が流れていた。
僕はユーフォニアム通称ユーフォと呼ばれる楽器を見ながらチューバのことを思い出した。
僕はもともとチューバという楽器だった。
一番大きい金管楽器だ。
だが2ヶ月前ユーフォニアムを担当していた先輩が引っ越しで辞め、一年生もストレスで部活を辞めた。
よってユーフォニアム担当は誰もいなくなったのである。
そこで先生が目をつけたのはチューバ。
チューバは3人いたため一人ユーフォに移動になったのだ。
その一人が僕。
チューバとユーフォは構造も見た目もほとんど同じで違うところといえば大きさくらい。
ユーフォはチューバの半分の重さだ。
僕はチューバという楽器に別にこだわりがあったわけではなかったのですぐに移動を決意した。
始めは楽しかった。
チューバなんかでは出せない高い音で更にメロディーも吹くことができるのだ。
しかも木管とは違い、メロディーだらけではないので譜読みもそこまで大変ではない。
最初の一ヶ月は合奏中全然吹けなくても許してもらえた。
今でも先輩や同級生は僕に優しくしてくれる。
まだメロディーが吹けないと言うと、「ゆっくりでいいからね」と言ってくれるのだ。
だが先生は全然吹けない僕を怒るようになった。
B♭の音が一発で当たらないと当たるまで何度もやらされる。
先輩たちはその時僕をかばってなんかくれない。
やっと当たったB♭でも先生は「まだ頑張れるわね」と言うのだ。
そして2ヶ月たった今。
合奏で連符を吹けず先生から「出て」と言われた。
まだ、ユーフォに変わったばかりだと言うのに。
忘れていたようにマウスピースに口をつけた。
最初に吹いたB♭はさっきの僕の声にも負けないくらいカスカスだった。
連符を吹けるように指を動かす。
inテンポでやっても全然指も口も追いつかなかった。
先生はできない連符はゆっくりやれと言うけど速くできなかったら合奏では意味がないじゃないか。
僕はもう一度連符を吹いた。
今度はさっきよりはましで、まぁなんとか許してもらえる範囲だろうなというくらいだ。
最後にもう一回吹いた。
音は汚いが、指が追いつくようになった。
もう、これくらいでいいや。
僕はユーフォを片手に抱え譜面をもう片方の手に持つ。
そして足音を殺して音楽室前にしゃがんだ。
まだ合奏中のため、入りづらいのだ。
と、途中で曲が止まった。
防音の扉でも先生の声がかすかに聞こえた。
「だめね。チューバ、2人でももう少し音出るでしょ?」
いらついたような先生の声はチューバに向けられていた。
「はい!」
二人の声は重なってやる気に満ち溢れた返事になっていた。
僕はそっと窓をのぞく。
だれとも目が合わないのをいいことに先生とチューバのやり取りをじっと聞いていた。
「池済だって頑張ってるんだからあなた達も頑張らなきゃ」
池済?たしかにそういった。
それは僕の名前だ。
「池済はもっと頑張れるのよ。ホントのあの子の力はあんなもんじゃない。自分ができないって思っているからできないのよ。」
汗が首筋まで辿っていった。
「あなた達も池済ができるとは思ってないんでしょ?だからいつも甘やかすのよね」
チューバの2人は苦しそうな顔だ。そのとおりと言っているよう。
「できないと思ってなくても、優しくするのは違うわ。別に厳しくしろって言ってるわけじゃないけど…」
手が湿って譜面を落としそうになった。
「きちんと音が鳴ってないのを指摘してあげないとあの子は成長しないのよ。甘やかしても池済は変われない」
いつしか僕は先生の言葉に釘付けになっていた。
「楽器が変わったばかりだからって吹けないのを許していたら池済に失礼よっ!」
僕はずり落ちかけていた譜面をしっかり握ると、もう一度さっきの練習場所に戻った。
初めに吹いたB♭は今の僕の心を表すくらいに鮮明で透き通っていた。
完
最初のコメントを投稿しよう!