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琥珀を水で溶かしたような背中を覆う長い髪は、ふわふわと膨らんで、流行りの耳隠しや夜会巻きにはまとめられない。仕方がないから総髪のまま、赤いリボンだけを留めた。
古着の着物は今時流行りの銘仙で、本当なら袴も穿きたいところだけれど、さすがに女学生のふりは不釣り合いだ。
(文士さん、文士さん、憧れの文士さん……)
木葉は風呂敷にまとめた荷物を持って、自分の髪の毛のようにふわふわと膨らむ気持ちを抑え込んで、てくてくと歩いて行った。
(わたし、やっと文士さんのお役に立てるのよ……!)
そう木葉は走り出したくなる気持ちをぐっと堪えて歩いていた。それでも嬉しさはどうしても足を早くする。
文明開化の時期からすっかりと年月が経ち、今は大正。電気のありがたさがようやっと届いた町の街路樹は柳。柳の垂れ下がる川沿いを真っ直ぐに歩いて行けば、問題の家が見えてくる。
木葉は恋をしている。その恋が叶うとは思っていなくても、傍にいられる。
そう思うと、木葉の気持ちは弾むのだった。
****
琥珀を溶かしたような色の髪から、ぴょこんと覗く尖った耳。お尻から飛び出しているのは、ふかふかとした尻尾。
小さな頃の木葉は、まだ化け狐としては半人前で、人間に変身するのも下手くそだった。
「ばーけぎつねだ、ばけぎつねー!」
「あっちいけ! ここはおまえのいばしょじゃないぞ!」
自分と違うものには、人間はどこまでも残酷になれる。ましてや人間でなかったら余計にだ。
最近は山も人の手が入って落ち着かなく、ご飯を求めて人里に来ることが増えた化け狐だが、変身するのが下手くそで、なおかつ親から離れたら、こうやって石をぶつけられることもある。
ゴッチンと、またも石が木葉の頭にぶつかった。それで大粒の涙を浮かべても、これが同い年の女の子だったらクソガキたちも怯んだんだろうが、あいにく彼女は化け狐だ。泣いたら面白がってまた石を投げつけてくる。
「うっ……うっ……」
「なーいたないた! おやをよんでみろよ!」
「ばけぎつねの毛をはいだら、高く売れるんだろう? なあよんでみろよ!」
「やめてぇ……おかあさんの毛をはがないでぇぇ……」
とうとう声を上げて大泣きしはじめた木葉は、ゴッチンという音を耳にした。
またしても木葉に石をぶつけられたのではない。クソガキたちが拳骨で殴られたのだ。
「君たち! よってたかって石を投げるのはやめたまえ!」
「あー、売れない文士だぁー! いってえな、なにすんだよ」
「君たちが一対一で素手で勝負するならいざ知らず、何人もで取り囲んでひとりをいじめるんじゃない。おまけに狐は愛情深いんだ。怒った親狐に、君たちの家を燃やされても知らないぞ?」
「うっ、うそだ!? ばけぎつねが火を出せるわけないだろう!?」
それには木葉も戸惑った。
化け狐の中でも、狐火を出せるようなのは大物で、木葉たちみたいな普通の化け狐では出しようもないが。
クソガキたちは文士に殴られた脅されたのが効いたのか、「つっまんねえよ! あっち行こう!」とそのまま逃げてしまった。捨て台詞さえおそろしかったのだろう。なにもこちらに言ってはこなかった。
木葉は戸惑った顔で、文士を見上げた。
真っ黒なざん切り頭は、今時見慣れたものだった。着物の下にシャツを着て、目元には丸眼鏡。
「あ、あのう……ありがとうございます……おかあさんと、はぐれちゃって……」
「そうかいそうかい。まあ、君も大変だっただろうさ。親が見つけてくれるまで、とりあえずそこのお茶屋でお茶でも飲んで待とうか」
「あ、はい……」
木葉は人間に初めて優しくされた。小さな生き物に優しくするのは、どういう人間でも当たり前のことなのだが、あいにく木葉には人間の常識がよくわからなかった。
文士はなにをする人なのかわからないが、串に刺さった団子を食べ、お茶を飲みながら、少しずつ話をさせてもらった。
「化け狐は、その耳と尻尾を隠せないものなのかい?」
「おかあさんは、ちゃんとかくせるんですよっ? わたしが、へたっぴなだけで」
「そうかいそうかい。明治から大正になって、大分妖怪を見なくなったと思っていたけれど、まさか町まで降りてくるなんてねえ……」
「妖怪、わたしたち以外にも見たことがあるんですか?」
「そりゃそうさ。私はそういうのを書いて、売っているんだからねえ。売文業って奴さ」
「ばいぶんぎょー」
「おとぎ話をつくって書く仕事さ。それを売るんだ」
木葉は文士の話をうきうきしながら聞いた。彼は饒舌で、いろんな面白い話を語ってくれた。そうしている中。
「まあ、木葉! あなたどうしたの、こんなにボロボロで!」
「おかあさん!」
同じ琥珀を水に溶かした色の髪ながらも、母は人間に化けるのが上手く、きっちりと髪を結って着物を着ていた。彼女の腰に木葉が抱き着くと、文士に何度も頭を下げる。
「申し訳ありません、うちの子がご迷惑を」
「いえいえ。ええっと、木葉?」
「は、はい……!」
「次はもうちょっと化けるのが上手くなったらおいで。あんまり石をぶつけられないようにね」
そう言われて、木葉はぽわぽわと舞い上がる気持ちになったのだ。
それに母は「あらあら、まあまあ」と言ったのだ。
あれから、木葉は何度も何度も上手く変身できるように稽古をした。尻尾を隠せば耳が隠せず、耳を隠せば尻尾が隠れず、どちらも隠す方法を一生懸命身につけた。
一方、人間の料理についても勉強をした。
狐は基本的になんでも食べるが、人間は食道楽という言葉があるくらい、えり好みをするらしい。母は「化け狐が人間のお嫁さんになっても、なかなか上手くいかないのよ?」と心配したが、木葉は「だいじょーぶ!」と言った。
「文士さんは、やさしいのよ。いろーんな話を知っているし、人間に石をぶつけられたわたしもたすけてくれた。だからだいじょうぶ」
「そーう? でもね、木葉」
母は心配そうに、人間の真似事をして火の熾し方から鍋での煮炊きの仕方、さらには人間の料理の作り方の本まで読むようになった木葉を見つめる。
「人間はたしかに博識だわ。そして小さいものに対しては情が深い。でもね、人間はそれ以外には残酷なのよ。大昔にだって、私たち妖怪と人間が結婚する話は何度も聞いたけど、全て破局しているのよ……お母さんは、あなたが傷付かないかが心配だわ……」
「だいじょうぶよ? だってわたし、小さいままだもの」
実際のところ。
木葉はたしかに人間に上手く化けられるようになっても、相変わらず人間としては小柄な部類だったが、既に母が人間に化けたときと大差ないほどには成長していた。
人間でいうところの女学生くらいには成長し、そろそろ人間が残酷な本性を見せてもおかしくはない年頃だということを、文士以外の人間の区別がさっぱりつかない木葉はわかってはいなかった。
「お母さんは、あなたが傷付かないんだったらそれでいいのだけど……」
一生懸命人間の真似事をする娘を、母はそれはそれは心配して見つめていたが、恋に浮かれていた木葉は気付くことがなかった。
そんなときだった。麓の町で、文士が女中を募集しはじめたという話が舞い込んできたのは。それを聞いた木葉は、荷物をまとめて久し振りの町へとてくてく出かけていった。
木葉は化け狐としては落ちこぼれであった。
既に文士と出会った頃から数年経っているということも、数年も経てば人も変わるものだということも、母の気持ちと同じくこれっぽっちも理解していなかったのである。
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