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第九話 「集中治療室」
scene-1
癌の手術を終えた母は、集中治療室のベッドで眠っていた。
「全て取りきれたと思います」執刀医の言葉に思わず握手をした俺と親父は、自宅に戻り祝杯をあげた。ビール片手に辛かった数ヶ月を振り返っていると、携帯が鳴った。病院からだ。母が暴れているのですぐ来てほしいと言う。何が起きているのか理解できなかった。タクシーで駆けつけた俺と親父が集中治療室に飛び込むと‥母はベッドに拘束されていた。そして俺達を見て叫んだ。
「看護婦に殺される!」
scene-2
“集中治療室症候群”と言うらしい。大きな手術後に時たまある一時的な錯乱症状だと説明された。母の場合、手術に対する恐怖心から、看護婦に殺される妄想に取り憑かれているようだ、と担当医が言う。手術室に入る前、母は俺と親父に言った。「頑張るから、心配しないで」気丈な言葉の反面、内心どれだけ不安だったか‥狼狽する親父を家に帰し、俺は母のそばに付き添うことにした。
scene-3
長い夜になった。最初は、怯えた目で「助けて」と訴える母をなだめすかし、優しい言葉をかけていた。が、時間が経つにつれ言葉が尽き、同時に少し腹も立ってきた。せっかく手術がうまくいったのに‥いい加減にしてくれよ。
夜が明け、朝一番で親父が来た。母が叫ぶ。「今日看護婦が私を殺しに来る」
俺は疲れ果てた表情で親父を見た。ベッドに近づく親父は意外にも笑顔だった。
scene-4
親父は、母の手を握るとこう言った。
「僕が退治したから、もう大丈夫だよ」
俺は驚いた。憑き物が取れるように母の表情が和らいだからだ。そして安心したのか、目を閉じ寝息を立てて眠ってしまった。
母の様子を見た担当医が、俺に言った。「元に戻るきっかけは、人それぞれなんです。もう安心でしょう」
-僕が退治したから大丈夫-
俺が絶対思いつかない言葉だ。最近老いてきた父親を心もとなく思うことが多かったが‥まだ勝てないな。でも、親父にそう思えることがなんだか嬉しい。母の寝顔を見つめる親父‥
病室に朝日が差し込んできた。
end
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