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1 コビト、現る
西日に照らされながら、メッセージを眺めた。
今夜は遅くなる。
夕飯いりません。
ああ、夫は彼女とデートだな。
もうだいぶ前から察しがついていた。
子どもたちはまだ夕方だというのに寝てしまった。夕飯も風呂も済んでいない。夕飯の準備をしている最中に、テレビの前で揃ってスヤスヤと寝息を立てていた。
(また中途半端な時間に)
このままでは本来寝るべき時間くらいに起き出して、母親を困らせるだろう。
子どもたちの寝息に耳を澄ませた。
(子どもの寝息がこんなに幸福なものだなんて、知らなかった)
でも、今寝てほしくはないのだけど。
わたしは西向きのキッチンの窓と向かい合って、コーヒー牛乳をすする。胸焼けするほどに甘い。
空はヒリヒリとした傷口みたいな赤い色に変わり始めていた。
(夫に、もう腹も立たないし、涙も出ない)
夫が彼女に会うために買った服や、密会のあとの下着を、洗濯して乾してたたむことに、嫌気がさしたりもした。
今は何も感じない。そっちの方の感情はすっかり麻痺している。
コーヒー牛乳の甘さだけが、感覚器官に鮮やかだ。
そろそろ後片付けをしようと流しにコップを置いて、何気なくカウンターに視線をうつした。
「こんばんは」
思わず目を見開いた。今の今まで気づかなかった。
そこに人がいたのだ。
黒髪の男だった。ゆったりとしたベージュのニットに、黒いコートを羽織っている。
しかし、その人の体長は20センチもない。
カウンターに置きっぱなしの懐中電灯の隣に立っていた。
「こんな日はビールでも飲みませんか?」
つとめて暢気な声で話しかけてきた。
「飲みません」
わたしは迷わず返答する。
「あなた、誰ですか? 人のうちに勝手に入って」
引き出しの中からトングを取り出し、カチカチと鳴らした。
「つまみ出します」
「やめてください。私は怪しいものではありません」
後ずさりしながら、困ったように笑った。
「その前に私の姿にもう少し驚いてもらえないですか。コビトですよ?」
「驚くことを強要しないでもらいたいですね。そんなことより、住居侵入罪というやつではないでしょうか」
「わかりました、謝ります。ごめんなさい」
そういいつつ、背中に背負っていた何かを降ろした。
「よいこらしょっと」
それは銀色のミルク缶のように見えた。ただ、我が家のシナモンの小瓶と同じくらいの大きさ。
「私は、現実に嫌気が指している人のもとに、現れるコビトです」
「そんなこと、どこで調べるんですか?」
「企業秘密です」
平然と答える男のふてぶてしさに、しばらく返す言葉を失っていると、何を勘違いしたのか。
「そんな、あなたにこのコビトビールをプレゼント」
「お断りします」
わたしは、ミルク缶ごとコビトをトングで掴んで、勝手口から庭に出た。
「ちょっとやめなさい」
ジタバタするコビトを完全に無視し、まだ蕾の沈丁花の根本にそっとおいて呟く。
「見当外れですよ」
コビトは訝しげに顔をあげる。
「現実に嫌気が指しているわけではないですから」
コビトはしばらく私を見つめた。それから何度かうなずく。
「わかりました」
ふと、沈丁花の根本の土が盛り上がった。
そこからひょっこりと扉が現れる。
「人の家の庭に建造物を?」
「まあまあ。今日は帰りますから」
コビトは楽しそうに笑って、扉の中へ消えていった。
「また来ます」
そう残して。
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