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9.新しいコビト
やっぱり早く起きてしまった。そんな、いつもどおりの朝のはずだった。
夫が夜中に家出した。
布団の中にはいない。
風呂にも、トイレにも、いなかった。
夫は二度と帰ってこないかもしれない。
昨日の会話で吹っ切れて、不倫相手と新しい生活を始めるのかもしれない。
そんな想像が脳裏を駆け巡る。
おろおろしていたら午前5時になっていた。寝室を覗くと子どもたちの寝息が聞こえる。
台所に隠した空っぽの小さな銀色の缶が脳裏を掠める。
ただの家出ではない。
夫はきっとコビトになって、消えたのだ。
不安と焦りが押し寄せた。
でも、諦めに姿を変えて、感情の波は帰ってきた。
(ああ、夫は子どもじゃないんだ)
とりあえず、新聞を取りに出る。もしかしたらいるかもしれない。
わずかな希望を持って玄関を出ると、すぐに視線釘付けになった。
ポストの上に、コビトが立っている。
(違う!)
長い髪を一つに束ね、和服か洋服かわからないような、謎の民族衣装みたいな服を着ていた。
いつものコビトじゃない。
ポストに近づくと、それがいつものコビトより見た目の若い男だということがわかった。
ポストの上からわたしを見上げる。
目が合ったその瞬間、向けられたのは敵意だった。
「お前は誰だ」
思いもよらない言葉に、身体が固まってしまった。
「お前は何者なんだ」
新しいコビトが重ねて訊ねるものだから、なんだかおかしくなってしまった。お前は誰だは、こっちのセリフだ。
「この家の家主の妻です」
「そうじゃない」
答えても、すかさず冷たい声を投げかけてくる。
「月志をたぶらかしてどうしたい」
「月志?」
「魔王だよ」
「魔王? いつも来ているコビトのこと?」
あの人を月志っていうのか。
口ぶりからすると、敵ではなさそうだ。
たぶんだけど。
「あの人の仲間なんですね」
新しいコビトはうなずきもせずこちらを睨む。
「薬を他人の家に置いてきて、ターゲット以外に飲まれてしまうなんて。あいつはマヌケだな」
そういった後、少し口元が歪ませる。吐き出した言葉には相手を責める内容なのに、不思議とその矛先は彼自身に向けられているようだった。
コビトが缶を置いていったこと知っている。聞いたのだろうか。一緒に住んでいるのだろうか。ターゲットって私のことだろうか。
色々な疑問が浮かび上がって、考えがまとまらない。
「あなたも緑川さんのお隣さんなんですか?」
とりあえず訊ねてみた。
「そうだ。月志もお前の旦那もいる。旦那を迎えに来い。邪魔で仕方ない」
やっぱり緑川さんの家にいた。コビトも、夫も。
「夫はコビトになったんですか?」
「知ってどうする」
「知らないで迎えに行くんですか?」
言い返されて腹が立ったのか、新しいコビトはわざとらしいため息をつく。
「あんたの夫は、もうコビトじゃない」
「じゃあ、コビトになったんですね」
「今は違う。水を飲んで寝るとすぐに元に戻るんだよ」
水を飲んで寝れば治る?
「なんだ」
なんだかガッカリしてしまった。
「元に戻る薬があるんじゃないの?」
「水が薬だ」
「水かぁ」
「なんだ。不服か」
新しいコビトがムッとしてまた睨みつけてきた。
「これだから人間は嫌なんだ。水を馬鹿にするとは。だいたい、あの薬はコビトにすることが第一の目的ではない」
改めて、新しいコビトをみることになった。
「第一の目的はなんですか?」
「世界征服だよ」
新しいコビトの好戦的な笑みは、底暗い闇を帯びていた。
そうだ。世界征服をするんだ。ただコビトにしたいわけじゃない。
その先にどんな目的があるのだろうか。
「いいじゃないか。目的なんて。飲んだ人間は、コビトになって現実から逃げられる。それは本人が望んだことだ」
コビトはハッとしてわたしを見上げる。
「でも、お前は飲まなかった。なぜだ。それなのに月志に絡む理由はなんだ。どこまで知って……」
その時、人が来た。ポストの前で独り言を言うのはおかしい。
「新聞を取れ」
新しいコビトに言われ、新聞を取り、差し出す。コビトは新聞の丸みの中に身体を隠す。
わたしは悠々と玄関へと入った。
「お茶でも飲んでいきますか?」
新聞の中に話しかける。
「飲まない」
新しいコビトは不満げだ。
「わたしは、魔王が世界征服を一時的に休むってことしか知らない。コビトから人間になれるのか、もともと人間なのかも知らない」
わたしは何も知らないんだ。
「うちの庭に来て草の話がしたいらしい。それだけ。たぶらかされているのは、こっち」
新しいコビトはもうこちらの話を聞いていない。
考え込んでいる。
寝室に話し声が聞こえて、子どもが起きたらどうしよう。
そんなことを考えながら、新しいコビトの次の言葉を待った。
「あいつ、休むといったのか?」
「そうです」
「世界征服を?」
「そうです」
深い溜息を漏らした。
「扉を開けろ」
「帰るんですか?」
「帰る。今すぐに帰る」
渋々玄関扉を開ける。
「あとで旦那を迎えに来いよ」
そう言われて、首を振った。
「迎えに行かない」
「どうしてだ」
ムスッとしながら私を見上げる。
「コビトじゃないなら、自分で帰れるでしょう」
「心配じゃないのか?」
「怪我でもしているの? 一人で帰れないような状況なの?」
「いや」
「それなら、問題ない。コビトの薬を飲んだのも、家出も、自分でしたことだから、帰るかどうかも自分で決めて、自分で帰ってくればいい」
決めるのは夫だ。
私じゃない。
「子どもじゃないんだから」
新しいコビトは少し黙り込んだ。私の顔をしげしげと見つめた。冷たいとでも言いたいのだろうか。
でも、わたしが少し身構えたのと反対に、思いの外柔らかく笑った。
「我々の邪魔をしないように」
そういって、玄関の外へと去っていった。
寝室がガタガタ動いて、子どもが起きたかもしれない。
(仲間がいた)
最後に笑ったけど、ちょっとツンツンしていたなぁ。
夫が家出をした。
コビトの家に。
私は迎えになんかいかない。
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