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10.蝕まれた夫 前
暑い。陽射しが強い。
下の子が入園してひと月が過ぎた。ゴールデンウィークも終わって、ほんの少しだけ落ち着いた時間が流れる午前中。
5月の紫外線に晒されながら、庭で蕗を摘んでいた。丸い葉っぱが広くない庭の一角を支配している。
昔読んだ絵本みたいに、葉の下に妖精はいない。
(会いに来ないかもしれない)
彼は、コビトは、すでに目的を果たしたのではないか?
考えるほどに、胸のあたりで嫌な予感が打ち寄せる。
切り口に鼻を近づけ、蕗の香りを感じてみる。春の匂いだ。もう少し摘もうと再び株元へと視線を移した、そのときだった。
「やあ」
小さな声がした。妖精の代わりに、黒いパーカーを着たコビトがいた。ツンツンと態度の悪い新しいコビトではなく、いつものコビトだった。
「やあ」
わたしも返す。自然と顔が綻んでいた。
今、あなたのことを考えていたんです。
そう口に出そうとして、やめる。何だかキザ男みたいなセリフだから。
「お久しぶり」
右手にハサミ、左手に蕗をもったまま、わたしはしゃがみ込んだ。
「変わりはないか?」
「元気」
「夫もか?」
一瞬、自分の顔がこわばった。思いがけない言葉だったから。
でも、気づかれてはいけない。
心を落ち着かせ、何もないフリをしなくてはいけない。きっと、コビトのビールを飲んだ夫の体調を気にしているんだ。
「特に変わりないです」
わたしは小さな嘘をついた。
本当は、小さな『変わり』があった。
それを話すことが是か非か。わからない。
わたしはコビトをじっと見た。こちらの動揺に気づいていないか、つい探ってしまった。不自然だったかもしれない。
「この前は、その夫が迷惑をかけました。申し訳ないです」
頭を下げて顔を隠す。
「いや、その」
再びコビトを見ると、そわそわと視線を動かしている。どことなく気まずそうに見えた。
「申し訳ないことをしたのはこちらだ」
「そんなことない。夫が勝手にあのビールを飲んだのだから」
コビトは言葉をつまらせていた。やっぱり視線が定まらない。
わたしの言い分に面食らって、次に何をいうかを探しているように見えた。
わたしより動揺している。
「どうかしたの? 何か違うの?」
まさか、夫はコビトのビールを、勝手に飲んだわけではないのか?
「違わない、多分」
「多分?」
「ーー私も見たわけではないから、確実ではないと言っている」
怪しい。
あの日何があったかは、夫とは話せていない。何もわからないのだ。
さわさわと風が吹いた。
足元で蕗の葉が揺れた。
二人の間で、庭木の影がゆらゆらと忙しない。
「魔王様」
今は聞きたかったことを聞こう。
「あの日、夫はどうやってあなたの家に行ったの?」
ヤケになった夫が、自分であの瓶の液体を飲んだとして。コビトになった後はどうしたのか。何故あの家にいたのか。
気になっていた。
「知らない。カナメが連れてきた」
「カナメ?」
「もう一人のコビトだよ」
「何故あの人が?」
あの夜、我が家にいたのだ?
魔王は黙る。
「もしかして、あなたたちは夫と知り合い?」
「いや、この間が初対面だ」
本当だろうか。
疑いの目を向けるわたしから目をそらし、
「今日来たのは、他でもない」
魔王は堂々と誤魔化しにかかった。
「今日は、私のほうが聞きたいことがあるのだ」
やっぱり誤魔化した。
わたしだって、答える気のない魔王にこれ以上質問するつもりもない。知られたくないことまでしゃべってしまいそうだったから。
「聞きたいことって何?」
今は魔王の話を聞こう。
意が伝わったのかコビトは小さくうなずいた。
「あなたの夫は、本当に変わりないんだな」
「ない、と思う」
答えながらコビトを見つめた。はぐらかせるだろうか。
一つの異変を除けば、夫婦の会話はまだうまくいかないものの、お互いおかしなことない。
コビトは夫にどんな変化を望んでいるのだろう。
まだ僅かにしか見せない、夫の変容の答え合わせが、わたしはしたい。本当はしたい。
それなのに、魔王の方は違う話を始める。
「では、彼を何故迎えに来なかったか、教えてくれないか」
話題が変わって、残念と思いつつホッとしていた。
「自分で帰ってくるから」
「迎えに来ないものなのか?」
「いい大人でしょ」
新しいコビトにもそういったはずだ。今更だ。
「そんなものなのか?」
「こっちが彼女の存在に気づいていることを教えたばかりだし。気まずいってのもある」
「本当か?」
「本当」
コビトは深いため息を吐き出した。
「つまり、離婚するからか?」
「しないよ」
コビトは口を開けたまま一瞬黙った。それから、苦しげな声を絞り出す。
「何故だ。あっさりそう言える。何故、別れようとしない。取り乱して怒らない」
うつむいたま魔王が吐き出した言葉は自問自答にも近い。自身を責めているかのようだ。
「あなたはいつも、受け入れて白けている」
意外な先制攻撃だった。
ようやく見せた本音を、コビトの頬の陰りの中に見た気がする。
「取り乱さなかったわけではないよ」
蕗の中から立ちあがる。
「傷ついたし、殴りたいし。何もかも捨てて山賊に拐われたいって思ったこともあった」
「何故しなかった」
「山賊いないし、どうでもよくなった」
「つまり、愛がないのか?」
わたしにとっては意外な言葉だった。
面食らってしばらく考え込む。
世界征服を目論む男から、夫婦間の愛について問われるとは。
「魔王は……いつまでも恋人みたいな夫婦が理想なの?」
「えっ!?」
素っ頓狂な声、というのをリアルに聞いた。今度は魔王が不意打ちを受けたかたちになったようだ。
夫婦の愛の形も、その理想も、全て型通りのはずはないのに。
「理想……そうか。私はそうだったのか。認めたくない。恥ずかしい……」
コビトは蕗の茎を曲げ、大きめの蕗の葉の後ろに隠れた。正直に堂々と恥ずかしがっている。
「悪いことじゃないから、隠れなくても」
「いや、只事ではない」
動揺するコビトをもう一度しゃがみ込んで眺めながら、ふと違和感を覚えた。
伴侶に愛を求めるのは恥ずかしがることなのか?
どちからといえば、コビトの言い分が王道なのではないか?
不可思議な焦り方だ。
こちらの視線に気づき、コビトは仕切り直しの深呼吸をした。
「それで」
そういうコビトの瞳の奥が光る。まだ聞きたいことが残っていると告げている。
「本当に離婚しなくていいのか?」
「どうかな」
「夫はなんていっている?」
「時間がほしいって」
「それで、どうするんだ」
「何が?」
コビトは眉を寄せた。
「別れるのか」
「離婚は夫に言われたら考える。子どもと一緒に生きる方法を」
「別れないと言われたら?」
「今の生活を続ける」
「何の制裁もなく、このまま?」
制裁という言葉に心臓が震えた。
「わたしから直接はしない」
魔王の肩から力が抜けていった。エネルギーを奪われ、魔力を失っていくかのように。
「教えてほしい」
苦しげな声だった。
「どうしたら、そんな気持ちになれる?」
「そんな?」
「夫の裏切りを受け入れられる」
ずっと不思議だった。この人がわたしに興味を持つことに、理解ができなかった。
(これかもしれない)
答えを求めていたのかもしれない。
魔王に向けて、手のひらを差し出した。
「蕗の下処理するから家に入る。お茶でも飲みます?」
魔王はうなずいた。
「邪魔する」
魔王を手のひらに乗せると、わたしは勝手口へと急いだ。
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