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11.蝕まれた夫 中
明るいところから部屋に戻り、視界が薄暗い。
コビトをカウンターに乗せる。
「いつもよりきれいだな」
「汚す人がいないから」
子どもたちのいない家は寂しいほど静かだ。
「なるほど」
納得しつつ、コビトは部屋をしげしげと眺め、空の弁当箱に腰掛けた。明日は下の子のお弁当の日だから置いておいたのだ。
わたしは気にせず、鍋に湯を沸かし始めた。
「何をしている」
「蕗をアク抜きする。蕗ご飯に使うために」
「悪抜き」
コビトは何か勘違いをしてうつむいた。
「食べやすくなるし、安全のためにも必要らしい。茎を塩ふってまな板の上でゴロゴロさせて、熱湯で茹でる。そのあと、冷水にとって皮を剥く。
コビトは、わたしの手元をしみじみと見つめた。
「草が好きだと、やはり食べるのか」
「草によるかな。蕗は草かもしれないけど、山菜っていうのがしっくりくる。おいしい山菜は食べる。でも、やっぱりモノによるよ」
「山菜……草にも格付けがあるのか」
「人間にはあること前提ね」
「あるだろう?」
「うん。綺麗事ばかりではないね」
他愛ない話が続いて、段々もどかしくなってきていた。
話を切り出せずにいるコビトに変わって、わたしが始めよう。
「わたし、受け入れていないよ」
突然違う話をしたので、魔王は訝しげに眉を寄せた。
「何?」
「さっきの話の続き。なんで白けて受け入れられるのかって言ってよね」
「気を悪くしたなら、謝る」
「謝らなくていいよ」
笑いながら、水を張ったボウルに氷を入れた。茹でた蕗を冷水にさらすためだ。
「投げやりだっただけ。気持ちを少し前向きに変えられたのは、あなたのお陰だし」
「私は何もしていない」
「あなたは世界征服を企んでいる。そして、夫はビールを飲んだ」
「それが何か関係するのか?」
「ーー得体のしれないものを飲み込んでしまった。それは夫に下された制裁ではないかな。それに、この先、わたしだってとんでもない制裁をするかもしれない」
コビトが押し黙った。
「世界征服スケールの大きさにモヤモヤをふっ飛ばしてもらった。好ましいって言った。その一言で救われたって、この前いったでしょ?」
承認欲求って悪いことだと思っていたけど、必要なのかもしれない。生きるために。わたしは、少し前に進めた。
でも魔王は納得いかない様子だ。
「だからって許せるか?」
「何を?」
「不倫をだ。他のやつとヤッたんだ。信じていたのに」
随分明け透けに言ってくれる。
「許していないよ。でもーー仕方ないじゃない」
「仕方ない?」
「夫からしたら、好きな人ができたってだけでしょ」
鍋の湯が沸き、蕗を入れた。
きれいな緑色へと変わっていくのをじっくりと見つめる。
「魔王は不倫を特別な恋愛だと思うの?」
「許されぬ恋だろ?」
「ものすごく普通のことしかしてないんじゃない?」
「裏切りとは思わないのか?」
「思う。すごく傷ついて、地獄に落ちた。一生忘れない。だからされた方だけに特別なんじゃないかな」
一緒に生きていたと思っていたのに、そうじゃなかった。
なじったところで、わたしとは違う人と、違うところにいた。子どもたちと生活していたこの家以外で。そんな夫には声も届きやしなかった。次第に届かなくても気にならなくなった。
「夫の気持ちは夫の好きにすればいい」
鍋をシンクにあける。
ザルに蕗を流し込み、白い湯気が立ちたがる。顔を湿らせながら氷水に蕗の茎を移した。
冷やされて、色の鮮やかさがさらに浮き立つように見える。
自分の心も、冷静さを取り戻していったのだ。
そして、更に冷えたとき。
私の心はどうなるだろう。
「強がりでは?」
コビトは納得できないようだった。
「強がりか。そうかも。強がって、これはわたしという人間を滅ぼすような出来事ではない。そう言い聞かせている」
腹の底にある歪んだ感情。
それを押し込めて、ただ絶望というハリボテに逃げた。
そこから、今、はみ出したところだ。はみ出させてもらった。
「ようやくメソメソをやめたところ」
思わず、天井を見上げた。
「私はまだ、そこまで行けない」
コビトは下を向いていた。苦々しく声を漏らした。
「妻を許せない」
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