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11.蝕まれた夫 後
子どもがいると言っていたから、いるとは思ってはいたものの。
「妻がいるんだね」
この口ぶりから、わたしと同じ境遇なのだと思う。魔王も配偶者の裏切りに苦しんでいる。魔王の言葉を借りれば、妻を愛しているから。
「受け入れられない。妻を許せない。何故できる? 受け入れられるなら、受け入れたいのに」
(ああ、やっぱり)
だから、わたしに興味を持った。
不倫されて白けているわたしが気になったのだ。
妻を許すための何かを見つけたいから。
妻を許せないままでは、離婚は免れない。
愛しているから離婚はしたくない。
でも、愛しているから許せない。
そんなループの中で。
「本当に妻を許したいの?」
「わからない」
コビトは肩を落とした。
うつむいたまま、諦めたような笑顔をこぼす。キャラクターの描かれた弁当に座ったままで。
「私は、妻の裏切りを受け入れられないのに、別れたくない。それなのに、妻の答えは一つだ」
それは、「別れ」だ。
「妻は、妻の出した答え以外は認めない。私の話など聞こえない。こちらはまだ決心がつかないから時間がほしい。そこはあなたの夫と同じだな。でも、私は不倫されたほうなのに。魔王がひどい扱いを受けている」
「あなたは怒らないの?」
「怒った。でも、そんなに怒るなら別れようと言われて、怒れなくなった」
何も言えずにいるわたしに、苦笑いを向けた。
「世界征服の前に、夫婦を終わらせなければならないなんてね」
冗談なのか本気なのか、わからないことをいう。
困った顔がそのまま出てしまったのだろう。
「今日は帰ろう」
コビトは立ち上がった。
「変な話をして悪かった」
「気にしないでよ。わたしのほうが変な話をしたよ」
わたしも変な話ばかりだった。
「次は、草の話をしましょう」
「ありがとう……」
コビトは目をじっと見つめ、
「まだ名前を教えてくれないのか?」
静かに訊ねた。
「教えない」
わたしも平然と答える。
頑なだなぁと、もごもごと言って、頭を掻いた。何故かと、訊くこともなく。
「蕗ご飯を食べに来る。残しておいてほしい」
わたしはうなずいた。
それから、勝手口からコビトを送り出した。
魔王も、わたしも、話していないことがあるはずなのに、微笑みあって。
(夫は、コビトのビールを飲んでから、植物に侵されている)
「さてと」
蕗の下処理の続きをしなければ。
★
みんな寝静まったあと、夫は帰宅して風呂に入る。
最近は、夕飯を外で済ませてくる。
でも、今日は風呂上がりに、おにぎりを食べていた。トイレから戻ると、キッチンに立ったまま、夫がもぐもぐとしている。蕗ご飯の残りだった。
「おいしい」
夫が呟く。
「ありがとう」
私は返事をする。
夫はテレビを見始めた。
「明日、お弁当あるから寝るね」
わたしは一人、子どもたちのいる寝室へと向かった。
夫は、今の会話で全て伝えた気になっていないか不安だった。
言葉にしにくいのだろう。
何も言わないことを許してほしい。察してほしい。そんな思いが伝わる。
今後どうするか、ちゃんと言葉にしてほしいものだ。
疲れていた。
苛立つのも億劫だ。
わたしは布団に入るとすぐ寝てしまった。
目を覚ましたのは、真夜中。
子どもたちはスヤスヤと寝ている。
起こさないように、静かに布団から抜け出す。
ドアノブをゆっくりゆっくり回す。
ーー夫は変わりないんだな?
魔王の言葉が頭の片隅に引っかかっていた。
電気はつけない。暗闇の沈んだ廊下をヒタヒタと歩いた。
夫が一人で眠る寝室を覗いた。
夫は寝ていた。
今日も、紫に光りながら。
最初は、目の錯覚かと思った。でも、確かに、ぼんやりと紫色に発光していた。
夫の顔を覗き込む。
頬やこめかみ、生え際に、青紫色の、スギナのようなものが生えていた。
初めてみた日より、大きく育っている。皮膚を埋め尽くし始めている。
それが淡く光を発しているのだ。
ーー変わりないか。
再び、魔王の声が脳内で囁いた。
ふと、夫のまぶたが動いた。
「どうした?」
不機嫌な声を漏らした。
「物音がして」
ついさっきまで、確かに、顔からはスギナのような植物が生えていた。
しかし、夫の覚醒と同時に顔に付着していたはずの発光物は消えていた。
夫は布団を被る。
「気のせいだよ」
「ごめん、おやすみ」
部屋を出た。
心臓が鼓動をうつ。
うるさいほどに鼓動は耳元で響いていた。
ーー変わりないか
夫に異変は起きた。
確かに、夫から紫のスギナが生えたのだ。
その異変を魔王に言えなかった。
このまま、夫が植物に侵されていくのを放っておくのか。
魔王に話せば、治せるのかもしれない。しかし、わたしは何故か相談もできず、そのままにしている。
この手の中に、夫の命があるのようで、恐ろしい。
恐ろしいのに、何故か笑ってしまうのだ。
(制裁か)
そんなつもりはなかった。
口に出せないでいる理由も、わからなかった。
でも、予感は、耳元で冷たく吐息を吹きかける。この制裁を続けていくうちに、腹の底に隠していた、煮え立つような怒りは、いずれ悦びへと変わるのではないだろうか。
(少しの間だけだ)
真夜中に一人、悪魔のような感情を持て余す。
そう決めたのだ。
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