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14.夢の中へ その1
夢の中で目を覚ました。
夢という感覚はわずかに残したまま、目の前の景色を見ていた。
さっきのリビングにいた。
違うのは、魔王は紫色のスギナなどには覆われてなどいない。コビトの姿で、白いソファーにちょこんと座っていた。
その姿は悔しいけれどかわいい。多分狙ったわけでもないから、非常にズルいかわいらしさだ。
「こんなところにやってくるとは、あなたは物好きだ」
いつもどおりの静かな声だった。ぶつけてやろうと思っていた疑問や憤りは冷めてしまった。
「カナメさんに連れてこられた」
「カナメが?」
「失敗だと言っていた。あなたから生えたのは紫色のスギナだから」
魔王は伏し目がちに座ったままため息をついた。
「残念だ」
吐息混じりに呟いて、にっこりと笑う。
「スギナは私だ。名字も杉名という。よろしく」
「はあ、よろしく」
夢だからよくわからないことを話すのだろうか。
混乱するわたしを無視し、魔王は話を唐突に始める。
「昨夜、妻と話して。正式に離婚することにしたんだ」
昨日はまだ悩んでいたじゃないか。
「決めたの?」
「ふふ。とても苦しい」
こちらを見ないで笑う。
白々しい笑みに胸が騒ぎ始めた。
決めたというより、時間切れで押し切られてしまったのかもしれない。
「自分が悪いんだ」
その口ぶりはまるで自分に言い聞かせるようだった。傾いた横顔が妙に蒼白く、物悲しい。
「世界征服を企む夫なんて嫌だろ?」
珍しくおどけた声で言うと、また少し笑う。
「私は大地に根を張り、そこから毒の胞子を撒き散らす計画を立てたんだ。
どうだ。悪いだろ?」
悪戯に目を輝かせてこちらを仰ぎ見た。
「確かに悪いね」
自虐的な笑みを浮かべる魔王は、あまりに寂しかった。
「それが妻と息子にバレて、阻止された。あいつに無毒化されてしまった。反抗期かなぁ。父親が憎いってさ」
そういえば、怪我をした姿で現れた時、息子と喧嘩したと言っていた。
「妻はどちらかというと、私みたいな魔王を討伐する立場なんだ」
「勇者なの?」
「どちらかというと監察官だな」
「そんな組織があるのね」
「我々みたいな人ならぬ力を持つ者は大昔からいるらしいからな」
「大昔から?」
「天気を操ったりした人が元祖といわれている」
何だか壮大な話だ。
「神話の時代から続くみたいな話になった」
「そうだ。それは間違いではない。そこから続く組織によって私たちは管理、なんなら監視されている。だから人間の世界で人間として生きて、もし反乱を起こそうとすれば同じように力を持つ奴らが抑え込みに来る」
「抑え込まれたの?」
「しかも息子に。徹底的にやられて無毒化されたのだ。ついでに妻には不倫された」
「不倫はついでなのね」
「妻にとってはついでらしい」
「魔王討伐のついでに不倫なんて、変なの」
「でも。妻はそう言っていた」
「本当に言ったの?」
「言った」
それは本音だろうか。
妻の本音は違うんじゃないだろうか。
本当に言いたかったことは、魔王に届かなかったのかもしれない。でも、そんなことをこの傷ついた背中に投げかけたら、脆く崩れて消えてしまいそうだ。
「それで、あなたもコビトのビールを飲んだの?」
ヤケクソで飲んだなら、わたしの夫に似ている。
「違う」
魔王は首を振った。
「カナメには止められたけど、ヤケじゃない。無毒化されても俺の近くにいてくれたのはカナメだけだったから、力になりたかった。
世界征服もしたかった」
魔王はうっとりと外を眺める。夢の中の窓の外は、レースのカーテンの向こうで淡くレモン色に発光している。空恐ろしいほどに静かで美しい。煌々と光りながら闇へと手招いている。
「発症したのなら、このまま朽ちるまでだ」
魔王はあそこへ行くのだろう。すべて受け入れて、冷めてしまったから。わたしとは違う形で心が凍りついてしまった。
「カナメはどうするの?」
あまりに悲しくて、悲鳴みたいな声が漏れた。
「カナメなら俺の躯を調べて、失敗した理由をちゃんと突きとめるだろう」
魔王はこのまま目覚めなくてもいいと思っているんだ。
紫のスギナに覆い尽くされて、制圧されても構わないんだ。
心は現実と遠く離れたところにいて、じわじわと進む自らの消滅を見つめている。
腹の底が熱く、わたしを駆り立てる。猛烈に嫌だった。
「わたしの夫も発症している」
「えっ?」
初めて魔王の表情が崩れた。
「わたしの夫も朽ちるの?」
「昨日は変わりないといっていた」
「ウソをついた」
言えなかったのだ。
言えばよかった。そうしたら、こんなことにはならなかったのかもしれない。
もしものことなんてわからない。わからないけれど後悔は否応なしに押し寄せる。
それどころではないのに。
「嘘をついたことは謝る。わたしは夫の苦しむところが見たかったのかもしれない。なぜ言わなかったのか、自分でもわからない」
「不倫した男なんて、それでいい。朽ちてなくなればいいな」
ひどいことをいいながら、魔王は優しく笑った。
なんて適当なのだろう。
また遠くへ行こうとするから、わざとらしくドサリと音を立てて魔王の隣に座った。
「わたしは朽ちないでほしい。助ける方法を教えて」
前を見たまま言う。怒りに似た熱を抱えていた。
「魔王。あなたもいかないで」
魔王は何も答えない。困ったようにこちらを見ている。
「あなたを、こんな目に合わせようとしたのに?」
わたしにビールを飲ませ、カナメの苗床にしようとしたのは事実。
でも、途中からやめたのも事実だ。
そんなことは忘れて、おしゃべりしたのも、本物のビールを飲んだのも。抱擁も。
「あなたを裏切り者とか、よくも騙したなとか、なじれば気が済むの?」
そんなつもりは一つもない。
「わたしは信じようと思う」
それは都合のいい願いかもしれない。
でも、自分の心を信じる。
会うと心が休まる。たくさんあった嫌なことが、ぼやけて、笑えてくる。魔王には虚構でも、わたしにはそうだった。
「消えてしまうの?」
魔王はこちらをじっとみていた。
「私は女としてあなたを、愛さない」
わたしは魔王を睨んだ。
「女として愛されたいなんて言っていない。そんな気遣いはいらない。魔王にそれを求めていない。そんな関係が匂ったことなんてない」
畳み掛けるわたしに魔王は少し吹き出した。でも、すぐに真顔になる。
「きっと、求めるよ。精神的な欲求すら満たされない場合は、尚更」
苦しそうに笑った。
「我々はそういった欲は薄いんだ。植物だから」
「性欲のこと?」
「それも含めて様々な欲だ。ないわけじゃないが、薄い」
「それは少食とか?」
「もちろん少食だ。性欲もあまりない。強く求めるのは睡眠くらい。でも、そういった生きるための本能的な欲というより人間関係とか社会的な、そういう類いがとても薄い。きっとつまらない。妻は植物じゃないから、満たされないで離れていったんだ。それなのに、私は妻に強く執着してしまった。それがつらい。あなたの心に寄り添うことだって、できないだろう」
妻の話が始まると魔王の心がまた遠くへと離れていく。
「わたしはあなたの妻じゃない。あなたは存在してくれれば、わたしはそれでいい」
うんうんとうなずいてから、魔王はクスクスと笑った。
「何がおかしいの?」
「いや。ありがとう。でも、私は価値が欲しかったんだ」
寂しい笑顔でこちらを見上げる。
「私という存在には、何か価値があってほしかった。それが愚かなことだとしても」
魔王は明るく笑うけれど、声はどこか冷たく乾いている。
「そんなことを求めたことなどないのに。妻を失うとわかった途端に欲した。情けない」
わたしはなんて返せばいいかわからない。
「人はみんな情けないもんだよ」
ようやくひねり出したわたしの言葉は空回りして消えていく。
「そうかもしれないね」
答える魔王は現実を不要としていた。
引き止められないのだろうか。
この世から消滅したいと願う魔王を、どうしても失いたくない。
「また庭に来て。キッチンで甘ったるいコーヒー牛乳を叱って。それでいい。今はドクダミの白い花が咲いている。摘むと臭いから嗅いでみせて。八重葎を服につけて遊んで。わたしはそれ以外の何を望むの?」
必死だった。
でも、何を言っても魔王の心をすり抜けてしまう。わたしの言葉は刺さらない。魔王を引き止められない。
なんて無力なんだ。
「いなくならないで。すごく寂しいよ」
涙が溢れた。
涙は汚いから嫌だった。
涙は自分のために流すものだから。
他人を思いやって泣くなんて、そんな高尚なことはできないもの。
わたしはわたしが寂しくて悔しくて悲しいから泣いていて、それ以外のなにもないから。
魔王には届かない。
「なかなか卑怯な手を使うなぁ」
ふと魔王が顔をしかめる。
それから立ち上がり、徐々に大きくなっていく。
わたしより背の高い成人男性の姿になると、ふんわりとわたしを包み込んだ。
「もう一度言って」
魔王の声が頭の上から降ってくる。
「何を?」
何をかわからないけれど、何度でも言ってやろうと思った。思ったのに、魔王は答えなかった。
「今夜12時。沈丁花の根元から貴方の家へ行く」
「えっ?」
「貴方の夫を救おう」
囁いてから、魔王がわたしを突き放した。
蔓の、緑色が目の前を飛んだ。
目の前の魔王が、いつのまにソファーに絡まっていた蔓を一息にむしり取ったのだ。
「もう帰りなさい」
瞬間、再び視界が白くぼやけていく。
意識が遠ざかる。
このままでは気を失ってしまう。
卑怯って何?
まさか涙が効いたの?
わたしの夫を救うために戻ってくるの?
「あなたの名前を知りたかった」
答えないままわたしを夢から追い出して、魔王のほうがズルい。ズルいよ
目覚めると、リビングの床で寝ていた。
カナメの姿はない。
時計はまだ午前11時過ぎだった。
頬に涙が伝って、服を濡らしていく。
溢れて止まらなかった。
夢の出来事というのは頭に留めておこうとしてとも煙のように立ち消える。
それなのに、感情だけが残っている。
涙を拭った手にはカナメの蔓もまだ残っていた。
引っ張ると耳からするりと抜ける。
今起きた全ては、カナメが見せた夢だったのだろうか。その夢の中では、魔王が紫色のスギナに埋もれて、微笑みながら死んでいこうとしていた。
悲しい夢だ。
あんなもの、夢でいい。
(でも、その後に見た夢はーー)
貴方の夫を救おう。
確かにそう言っていた。夫はどうなるのだろう。 胸がギリギリと痛い。
わたしは魔王も夫も救いたいと思う。
「でも、夕飯の準備しないと」
帰ろうと立ち上がって、まだ手に絡みついていたカナメの蔓を握りしめる。
その手のひらに文字があることに気づいた。
親指の下の膨らみに、油性ペンではっきりと書かれていた。
夜12時、沈丁花、忘れるな。
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