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3、始まりのテープ
あれから世界征服のことばかり考えている。
(どうやって世界征服をするのだろうか)
おかしい。しかも、のんびりするための世界征服だ。
全体的に何かおかしい。
「何笑ってるの?」
一緒に飲んでいた夫に訊ねられ、首を振る。それから、コップのビールを飲み干した。
「なんでもない」
ビールを金曜日に飲む。夫が好きなアニメをみながら。それは結婚当初からの習慣みたいなものだった。
妊娠して出産して、お酒を控える時期はあったけど、落ち着いたら二人で細やかな晩酌を再開して今日まで続けてきた。
最近はアニメじゃなくて、ドラマをみることも増えた。
(これは彼女の趣味だな)
いつもと趣味が違いすぎて、馬鹿馬鹿しいほどわかりやすかった。
「めずらしいね」
と、言う。
「そう?」
と、夫はしらばっくれる。
わたしだってアニメも映画もドラマも好きだった。なのに、最近は何もをみても心に響かない。
(この状況のほうが、よっぽどドラマチックだからかも)
不倫した夫に気づきながら、夫の彼女が好きな映画を見る。ゾクゾクする状況じゃないか。
今見ているのは海外版のリメイクだ。人気の俳優が熱演している。
(でも、あなたの好みじゃない)
冷えたビールを取りに冷蔵庫へ向かった。開けると、わたしの好きなチーズケーキが入っている。夫はお土産をたびたび買ってくる。多分罪悪感から。
(優しいね)
夫なりの気遣いだ。
でも、夫がどんな罪滅ぼしをしても、わたしは目の前で展開される物語を楽しめない。架空の物語なんて、自分の存在を信じているときにしか楽しめない。
(何も楽しくない)
わたしは流されるまま今の生活を続けている。
テレビの前に戻り、缶を開けようとして、手を止めた。
目的は、世界征服だ。
コビトの言葉を思い出しながら、缶ビールを眺めた。
こんなつまらない世界なら、捨ててしまおうと思ったこともあった。
(少し前なら、コビトになっていたかもしれない)
すべてを捨てて、コビトになって、現状から逃げて、自分の存在意義を探していたかもしれない。あのコビトにすがって。
「開けないの?」
缶ビールを見つめる不審な妻に、夫がたずねる。
「やっぱりやめる」
子どもたちに朝ごはんを作らなくてはならない。
二日酔いも寝坊もしたくない。
わたしは子どもたちとの生活を捨てられないし、自立してやるという気概もない。そうやって、流されてきた。
(情けない)
そういえば、夫はわたしの好きな映画も、アニメも、本も、見ようとしなかった。
自分が好きなものばかりだ。
好みが合わないなら、別によかった。よく考えたら腹が立つことかもしれないが、それも、どうでもよかった。
夫が選んだものと、子どもたちの好きなものに囲まれて、それでよかった。
私は、地下深くで人間が滅ぶのを待っている。
コビトの声がまた聞こえた。
気持ちが揺らいで、沈んでいく。
一緒に待つのも悪くないのかもしれない。
そんな思いを振り払って、立ち上がる。
「先に寝る」
夫の返事を聞かながら、歯を磨くために洗面所へと向かった。
鏡に冴えない女が映る。長い髪を一つに縛り、つまらなそうな顔をしている。男性(小さいけれど)に、とても好ましいと言われたとは思えない。
(いつから切っていないかな)
よくよく思い出せば、長い髪が好きなのは、わたしじゃなくて夫だった。ずいぶん、若い頃の話だ。
今となっては、別に髪型なんてなんでもよかった。一つに縛れるのは楽だから、このままでいいと思っていた。都合がいいと。
(都合)
都合がいい。そんな選択肢でここまできたのか。
夫はまだテレビを見ている。時々スマホをいじりながら。
洗面所の戸棚を開いて、散髪用をのハサミを取り出した。結っていた髪を解き、一束、手のひらに掴む。もちろん、切るために。
迷いなく、刃をいれる。ザクザクと音がした。
仕上がりは気にしない。ぎりぎり縛れる長さを保ったまま、肩より上に、髪を切り落としていく。
ビニール袋に髪を詰め込んで、捨てた。
(風呂の前に切るべきだった)
散らばった髪の破片を何とか集める。夫が訝しげに見ているけれど、触れてこない。
(興味がないからね)
不倫さえバレなければ、妻のことはどうでもいいのかもしれない。むしろ面倒くさいことには関わりたくないのかもしれない。
(それなら、よかった)
枕が汚れそうで少し後悔はしたけれど、気持ちはスッキリしていた。
自分で何かを選びたい。そう強く思った。夫に頼らず、子どもたちのためでもなく。コビトに頼るのでもなく。
髪だけじゃない。何かを切り捨て、何かがスタートした瞬間だった。
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