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4、焼きおにぎりの日のこと
次にコビトが現れたのは早朝のこと。
新聞を取りに行くと、ポストの上に立っていた。どうやって登ったのか。
「おはよう」
わたしを見上げるコビトの顔には、きり傷のような赤い跡があった。
「おはよう」
挨拶を返した後しばらく黙り込む横顔は、前に見た時と少し雰囲気が違う。
「どうしたの?」
「ちょっと、息子とケンカした」
「ーーあなた、父親だったんだ」
「あっ」
声を上げて一瞬固まった後、コビトはゆっくりとうつむいた。
「しまったな」
頬を少し抑え、それから少し笑った。息子のことは言うつもりはなかったのかもしれない。
「世界征服はどう?」
わたしが切り出すと、コビトは眉を寄せた。
「もしや嘘だと思ったのか?」
「えっ?」
「世界征服どう? なんて。真剣に考えている者に軽々しくきけないはずだ」
真正面から言われて困ってしまう。世界征服が嘘だと思う前に、本気だと受け取るのが難しい。だって世界征服。
答えあぐねるわたしを見て、
「私は本気だ。何もかもを利用しても、手に入れようと思う」
コビトは真顔で言った。
「どうやって?」
「さあね」
コビトは空を見上げた。
「あそこに星が見える。もう朝だというのに」
コビトが世界征服から話をそらした。わたしもそれに乗ることにした。
「春が近いから、だいぶ早く夜が明けるようになったけど。まだギリギリ見える」
「あの星が一番光っている」
コビトが東を指さした。
「あれは金星ですよ」
「金星?」
「明けの明星っていって……説明ききます?」
「やめておく。星がすきなのか?」
「星も好きです。雑草のほうが好きですけど」
ポストから新聞を取ってから、コビトに手のひらを差し出した。
「ありがとう」
コビトは手のひらに乗る。足の裏の感触がヒヤリと冷たい。それから腕を伝って肩へやってくると、ストンと腰掛けた。くすぐったくて、軽やかな重みだった。
わたしは台所へと戻った。朝ご飯を作らなくてはいけない。
「どうして雑草が好きなんだ?」
コビトは肩の上で訊ねる。
「価値があるのか?」
「価値、か」
朝ごはんのおにぎりを握りながら考えた。雑草の価値。好きな理由を。
「見ていて面白いからかな」
「抜いて捨てられるのに?」
「まあ、わたしだって草むしりはするけど。それでも価値はある」
魚焼きグリルにおにぎりを並べて焼き始めた。焼いている間、他のおかずを作らないと。
「ほしい」
コビトが急に肩から飛び降りた。
「あなたにとっての価値が、私にも欲しい」
まな板の隣りにある立ち、力強くわたしを見つめた。
「あなたに価値があると思われたい」
また、変なことを言い出した。
「わたしに思われても、どうしようもないでしょ」
「前も言ったが、あなたを好ましいと思う」
「それは、ありがとう」
まるで愛の告白みたい。でも、コビトは気づいていない。
「わたしみたいな底辺に価値を求めるなんて、あなたは変ですよ」
「変ではない」
「今から世界征服をしようとしているっていうのに?」
理由がわからない。わたしには価値なんて微塵もない。砂一粒どころか目に見えない粒子ほどもない」
「そんなことを言うな。私は、あなたに認めてほしいんだ」
「だから、何故わたしなの?」
わたしの質問に、コビトは固まった。まるで急ブレーキをかけられた車みたいに。それから、わたしから視線を背けることなく、
「わからない」
と、はっきり言った。
「全く理由はわからない」
「嘘でしょ」
本人も、わからないのか。
「わけもなく人をコビトにしようとしたの?」
好ましいなんて言ったのか。
コビトは頭を掻いた。そらした瞳の冷たさに、わたしの背中に小さな戦慄が走った。
もしかして、嘘なの?
理由を言えないだけ?
本当は、恐ろしい理由があるの?
その真意を探ることはできなかった。探る方法なんてないから。
コビトはわたしの疑いの目に気づいたのか、寂しそうに微笑んだ。
「ただ、あなたには、もう自分を貶めないでほしい」
「ありがとうーー」
優しい表情に戻ったコビトを見て、わたしはようやく思い出した。
「そう、あなたにお礼をいわなくちゃいけなかったんだ」
「何故?」
「あなたのおかげで少し元気になったから」
短くなった自分の髪に触れてみる。
底辺でもなんでもいい。少しだけ前を向くことにしたんだ。
夫の選んだこと以外をしてみよう。そう決めた。
コビトは怪しげだけど、わたしを肯定してくれた。もう、それだけでよかった。人から、あんなにストレートに好ましいと言われるなんて、そうそうない。
閉じこもりってきた心に、風を通してくれた。
もちろん怖い。もちろん信用できない。
相手は、拐かそうとするコビトだから。
それでも、窓を開けてくれたんだ。
「だから、つまり、ありがとうと言いたくて」
「私にお礼なんて言わないでほしい」
コビトは首を振る。
「私は醜い」
「あなたは醜くないよ」
「顔のことではない」
堂々と言ってのけるコビトに少し吹き出してしまった。確かに、コビトの顔は良いほうだろう。
「わかってるよ。いや、まだ3回しか会ったことないし、わからないことは多すぎるくらいだけど」
中身については、出会ったばかりだからなんとも言えない。
「でも、あなたと話して、わたしは元気になった。その相手が醜いなんて、思いたくない」
「いや。私は、世界征服を企む悪者だ」
答えるコビトは、自分自身に言っているようだった。悪者と言い聞かせ、決して自分を許さないように。
「醜くて、邪悪なんだ」
コビトはハッキリと言った。もうやめてほしかった。
「人間なんてもともとそんな美しいもんじゃない。まあ、コビトは知らないけど」
唇から言葉がとめどなく流れた。
「醜いあなたでもいいよ。あなたと話しをして、わたしは救われたのだから。芯から全て美しくなくてもいいじゃない。大丈夫だよ」
コビトは目を丸くしている。我に返って、わたしは少しバツが悪い。
慌てて目をそらし、焼きおにぎりの焼き加減を確認するふりをした。
「それは」
こちらに向かってコビトが呼びかける。
「あなたに言ってあげてほしい」
どういうことなのかよくわからなかった。わからずにぽかんとしているわたしに、コビトは微笑んだ。
「あなたも同じだ。芯から美しくなくても。汚くても、醜くても、あなたがいてくれるだけでいい。だから、もう自分を蔑むのはやめてほしい」
それは、殴られたみたいな衝撃だった。
涙が溢れてしまった。
うっかりだった。
「やだな」
大丈夫って、誰かに言ってほしかったのだろうか。
自分を貶めることを止めることができない。止める勇気がない。自分を肯定したら、夫を責めたら、わたしの自我は壊れてしまいそうで。
でも、コビトに会って、それも終わりにできそうだった。
「そうだね。やめるよ」
わたしは夫の裏切りから逃げていた。
自虐することで自分の本心から逃げることを、長い髪と一緒に捨てたのだ。
「名前を聞いてもいいか?」
コビトがまた、真面目な顔できく。
「駄目」
何となく、答えられない。理由はわかっている。
わたしは名前を失っていた。母、妻、保護者、近所のおばさん。そんな存在でいたかった。ずっと選ぶことから逃げ、他人の都合に合わせて来たから。
やっと一歩踏み出したばかりだ。
ふと二階で物音がした。こどもが起きてきたのだ。
「サヨナラの時間だ」
コビトの言葉に、わたしは再び手のひらを差し出し、コビトを乗せた。
「また、来る?」
勝手口を開けて、彼を地面に下ろす。
コビトはうなずいた。
「やっぱりあなたが好きだ。そして、私は醜い。揺るがない」
「まだそんなことを」
もう言わないでほしかった。わたしがなにか言いかけるのを阻むように、コビトは首を振った。
「私は、邪悪なことを企んでいる」
そう言い残して走り出し、あっという間に小松菜の葉っぱの影に消えてしまった。
焼きおにぎりの焦げかけた匂いに我に返るまで、わたしは小松菜を見つめ続けることになった。
(邪悪なこと?)
今回、コビトはビールを、コビトになることをすすめなかった。そのことが今になって、引っかかったのだ。
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