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5、コビトは悠然と街を歩く
その話を聞いたのは、娘が習い事を終えて教室から出てくるのを待っているときだった。うわさ好きというよりお喋り上手なママ友が言いだしたのだ。
「遥斗くんのママ、失踪したんだって。同じ地区だよね?」
失踪、という言葉の重みに始め声が出なかった。遥斗くんは息子と同じ小学校に通う三年生だ。確かに同じ地区に住んでいて、小学校関連の集まりで顔を合わせることがあった。
「遥斗くんのママって、緑川さん? 緑川さんが失踪?」
「知ってた?」
私は首を振る。ご近所の情報をおしゃべりできるような友だちがいなかったので、知るわけがなかった。
それにしても、緑川さんの家は我が家に近い。
「それとは別に、うちの地区でも、夫婦仲が悪くて家出した人がいるの。その話をしたら、あちこちにそういう話がでているんだって」
「あちこち?」
ママ友はウンウンとうなずいた。
「お母さんが出ていってしまったとか、実家に行くと言って帰ってこないとか。別にあってもおかしくないでしょ?」
「まあ、なくはない」
「だけど。同時に5件は多くない?」
「5件?」
「小学校のママ友に聞いたら何人か家出した人の話を知っていたんだけど、全員別人の話をしていたの。それで、それぞれ確認したら4件、プラス遥斗くんのママで5件目」
「確かに同時に起こるにしては多いかも」
「何か事件かな」
ママ友は不謹慎にもワクワクしていた。悪意は一つもないから清々しい。
「ただの偶然ならいいけど」
わたしはそう言いながら、コビトの顔が思い浮かんでいた。
しかし、下の子が騒ぎ出して、その場を離れることになり、その間にわたしよりもっと話し甲斐のあるママ友がやってきた。もうわたしとは話さなくなる。
正直ホッとしていた。
コビトが犯人かもしれないなんて、おかしなことを口走る前に話の輪から逃げたほうがいいのだから。
(もしあの男なら、手当り次第じゃないか)
あのコビトには自分だけに向けられた特別な感情があると思っていた。ちょっとうぬぼれたかもしれない。
娘が戻って来ると、さっさと車に乗り込んで家まで帰る。
だいぶ日が伸びて、まだ明るい夕方の空が広がっている。西の空が淡くオレンジに染まる。東は薄暗く宵闇が迫っている。
(あれは夢だったのかもしれない)
現実逃避の見せた幻。それでも、わたしは以前より少し前を向くことができたじゃないか。それでいいじゃないか。そう自分に言い聞かせていた。
(でも、わたしは失踪していない)
あの日、コビトはビールをすすめなかった。
(ダメだ)
運転するわたしの隣で、娘が今日の習い事での出来事を話しているのに、コビトのことが頭の隅から離れない。
(好ましいとか、好きとか、甘い言葉で持ち上げて引き込むのかもしれない。これからかもしれない)
善か悪かもわからない。目的が見えない。
(世界征服か)
家が近づくと車は住宅街の中を走った。横断歩道で下校中の中学生に出くわして、一時停止をする。
(あの家は……)
横断歩道を渡る中学生の向こうに、割と新しい民家が並んでいて、その中に赤い玄関扉の家がある。それは、緑川遥斗くんの家だった。さっき、母親が失踪したと噂できいたばかりの。
(コビトはこの家にも現れたのかな)
そんな思いを抱きつつ、横断歩道を渡りきった中学生を確認して、ブレーキから足を離そうとした。その時だった。
緑川さんの家のフェンスの向こうの隣家から、誰かが出てきた。
(えっ?)
見覚えのある顔と、黒いコートだった。
緑川さんの家のお隣さんなのだろう。ポストの中身を確認した。そして、こっちに向かって歩いてくる。ライトに照らされてはっきりとその顔を見ることができた。
「お母さん」
娘に声をかけられて我に返る。
「ごめん、ぼんやりして」
わたしはゆっくりアクセルを踏んだ。
黒いコートの男。あれは、あの顔は、確かにあの男だった。コビトだった。
あの人はわたしの車の脇を通り過ぎていった。
この街の住人として。
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