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6.魔王に抱かれ、約束を交わして
数日もしないで、カウンターに体長20センチもない成年男性が再び現れた。わたしは、寝転んでいるそのコビトを苦々しく見つめていた。
夕方というのは戦いの時間だ。はっきり言ってコビトどころではない。
下の子がまだ小さいから夕飯を作る時間は確実に得られるものではない。ぐずれば終わりだ。
そのために朝のうちから下準備をして対策を練って夕飯時を迎えている。
というのに。カウンターの上で横になってくつろいでいた。
わたしに気づくと、
「あら。おかえりなさい」
そういうなり目を閉じた。眠る気だ。暢気な。
(あら、とか言うな)
心の中で言ってみても仕方ない。
わたしは無視を決め込もうと腕をまくり、コンロに火をかける。今日はカレー。
しかし、必死になって準備を始めるわたしを尻目に、コビトは本当に寝てしまった。
(聞きたいことがあるのに)
心地のいい寝息を換気扇の音でかき消す。笑えるほど気持ち良さそうな寝顔をしていた。
子どもたちが仲良くテレビを見ているすきに、コビトにハンドタオルをバサっと乱暴に掛けてみた。起きやしなかった。
それにしても、カウンターの上で寝るのは痛そうだし寒そうだ。オーブン用のミトンをおいて、ハンドタオルごとコビトを移す。
(ミトンの敷き布団)
カウンターの上ではすぐに見つかるかもしれない。ちょっと心配になったものの、どうせすぐ起きると思っていた。
しかし、コビトは夕食後も風呂後も子どもたちが寝ても、夫が帰ってきて夕食を終えても、起きなかった。
カウンターに置いたハンドタオルの膨らみを、誰にも指摘されなかったのは奇跡だ。
(いい加減起きてもらいたい)
いつまでも落ち着かない。
夫が風呂に入ったのを見計らい、わたしはコビトにかけていたハンドタオルを取り上げた。
「もしもし」
一瞬微睡んで、コビトは跳ね起きた。文字の通り、跳ねて、起きた。
キョロキョロとあたりを見回して、ふかふかとしたミトンの上に立った。
「私、は今、どこ?」
「他人の家の台所のカウンターのミトンの上です」
「もしかして、夜?」
「もしかせずとも夜。とっぷりと暮れています」
「私はどのくらい寝た?」
「4時間は寝てますね」
「ああ」
コビトは両手両膝をついてうなだれる。漫画で見たことはあるが、実際やっているのは初めて見るポーズだった。
「人の家ですやすやとお休みでしたよ」
「怒ってるのか?」
「少しだけ」
「ごめんなさい」
コビトはミトンの上に座り直し、シュンとしてうつむいた。
「聞きたいことがあるのに、あなたは全然起きないから」
「聞きたいこと? やっぱりビールを飲むか? コビトになるか?」
「違う」
まだ寝ぼけているのかもしれない。
「あなたを近所で見かけた」
さっさと目を覚ましてもらわなくては困る。
「あなたは緑川さんのお隣さんなの?」
この質問は目覚ましになっただろうか。瞬間、コビトは身体を強張らせた。しかし、すぐに肩の力を抜き、吐息をもらしてわたしを見上げた。
「人違いだ」
口元が少し歪んでいる。しらばっくれる気か。それでもいい。聞きたいことは、これだけではない。その先のもある。
すれ違った男がコビトである確証はもっていない以上、ここで質問攻めにする気はなかった。
だから、もう一つの質問をぶつける。
「ここ最近、主婦が何人か失踪しているらしい」
コビトの瞼がわずかに引き攣った。
「ただの家出では?」
そう返した声は、平静そのものだ。でも、わたしは続ける。
「そうかも知れない。でも、違う気がする。だから聞くんです。さらっている犯人はあなたですか?」
「なぜ違うと思う?」
「あなたは、現実に嫌気がさしている人のもとに現れると言った。そう言って、無気力なわたしをコビトにしようと誘った。それなら、同じように主婦を狙ったのではないか。そう思ったの」
「だから、わたしの仕業と?」
コビトはしばらく黙っていた。それから、ミトンの上から飛び降りた。
根拠の薄い話にうなずくとは思っていなかった。でも、コビトはポリポリと頭をかき、再びこちらを見つめ返し、
「そうですよ」
あっさりと答えた。
「何のために」
「世界征服のために」
コビトは悪びれもしなかった。人間がコビトにされ、行方不明になるなんて。
「それは、恐ろしいことだよ」
「うん。だから、やめた」
「へっ?」
間抜けな返事がこぼれ落ちた。
「やめた? どうして?」
「満たされない」
コビトは笑う。
「あなたがいないから」
目をそらしたコビトの苦しそうな横顔に、心が揺れてしまう。それが手の内なのかもしれない。気を緩めたくない。わたしはトングを取り出した。
「はぐらかすのはやめて」
そのトングの先をコビトに向ける。
「誰でも良かったんでしょ? 早くさらった人たちをもとに戻して、家に帰してあげて」
「それは、本人たちが決める」
「決めるって。自分で帰れるものなの?」
「ずっと自由だ。こちらももう、あの者たちに用はない」
「用済みは捨てるってこと? わたしだってそうするつもりだったんでしょ?」
「違う。そんな悲しいことを言うなんてヒドイ」
コビトと目と目が合った。眉を寄せ、こちらを睨むその顔は、傷ついて見えた。
わたしを特別だというのは嘘ではないと訴えたいのか?
でも、策略ではないとは限らない。
思いあぐねるわたしに、コビトは苦笑いを浮かべる。
「今は信じてほしい。とにかく、あの者たちはじきに戻る。用は済んだ」
「信じろって言われても。だいたい用って何なの?」
「私は聞きたかったんだ」
「何を?」
言い淀んでから、コビトはわたしの目の奥を射抜くように、鋭い視線をぶつけた。
「あなたは知りたくないのか? 配偶者がいるのに他の人間とつながる理由を」
意外な言葉だった。
不倫の理由を問いただすために主婦を集めたのか?
それなら、確かに、わたしは当てはまらない。でも、世界征服となんの関係がある?
「コビトにした主婦たちは、もう元に戻る薬を与えている。もう飽きてきている。数日後には戻る。もうそれはいいんだ。だから……」
突然、男がカウンターから飛び降りた。
何が起きたのか、瞬時にはわからなかった。
コビトの姿が消えたのと同時に、カウンターの向こうに長身の、人間の男として現れたのだ。
目を見開き、その人を見つめることしかできなかった。
「ーーあなたの夫が来る前に、聞いてほしい」
語り掛ける男の声が低く響いて、わたしは言葉を失ったまま、立ち尽くす。
コビトがコビトじゃなくなった。
それは反則だ。車で見かけた時から覚悟はしていたものの、実際に現れると、正直恐ろしい。ご近所さんとはいえ、よく知らない大人の男が自分の家の真ん中にいるのだ。
わたしが明らかに怯えているのに、コビトは気にもせず話を続ける。、
「まちがえないでほしい。あなたは、あなただけは、コビトにするのをやめたんだ。嘘じゃない」
男はそう言いながら、ゆっくりとわたしに歩み寄る。
身長は夫より高いくらいだった。
今まで手のひらの上に乗せられる大きさだった人を見上げている。
「魔王はコビトじゃないの?」
「いかにも、私はこの世界を滅ぼしにきた魔王。そして、コビトだ」
ふいに男は両方の腕を広げ、わたしをふんわりと包みこんだ。
男から、しめっだ土の匂いがした。
(ああ……)
わかった。
このヒトは、人間じゃないんだ。
でも、どちらの姿が本当なのか。
コビトになっているのは、それをごまかすためなのか?
「あなたは何者なの?」
胸元で囁く。
「コビト」
「今はコビトじゃない」
「人間のサイズは仮の姿」
わたしから離れ、寂しそうに笑う。
それは本当なのかもしれない。魔王からは人の匂いがしない。それはわずかな違和感かもしれないが、確かなことだ。
生きている人間が放つ、巡る血と体温に包まれ、皮膚からこみ上げる生の匂いがない。
「あなたを拐いたかった。でも、もういい。私が来る」
「どういうこと?」
「またお話しよう」
「待って」
こうやって、また逃げる気だ。
「いつもいつも、大切なことを隠したまま帰らないで」
男の腕を掴む。
「あなたの目的は何なの?」
その手は震えていた。触れた腕はひんやりと冷たかった。ここで暴力に出られたら終わりだ。そんな恐ろしい想像のせいで、自分が引き止めたくせに、腰が引けていた。
「私がここへ来るのは、あなたが好きだから」
男はもう片方の手で、優しくわたしの手に触れた。
「怖がらないでほしい。あなたに危害を与えたりしない」
「本当かな」
「本当だ。だから、手を離して」
促されるまま、わたしはゆっくりと掴んでいた手を離した。
「世界征服は、ちょっと休む。休みたいんだ」
世界征服を休む?
仕事を休むみたいな物言いだ。つまり、世界征服を有給休暇で休むみたいな言い方だ。
「あなたと草の話をしたい。この前みたいに」
話についていけず、黙ったままのわたしがもどかしいのか、突然両肩を掴んだ。
「安心してほしい。これは、不倫ではない」
「ええっ?」
そんなことに戸惑っていたわけでも、疑っていたわけでもないのに。
「純粋な友情だ。それならいいな?」
至って真剣に男は言った。
住居不法侵入で、誘拐犯で、世界征服を企む魔王で、コビトのふりができて、近所に潜伏しているかもしれない。そんな不審な男が、わたしの(あと自身の)潔白を心配していた。
「魔王なのに、真面目」
思わず笑ってしまった。
「いいよ」
そして、許可してしまった。
「いいのか?」
「うん。わかったよ」
多分、魔王は何か企んでいる。
わたしも真相をもっと聞き出そうとしている。
でも、そんな思惑の外にわたしたちはいるのだと思う。
「純粋な友情でいこう」
この響きが嘘臭いくせに信じたくなった。気に入った。
「ありがとう」
魔王が笑った。
「また来る。あなたが怖がるから、コビトの姿で来る」
そう言うと、勝手口を開け、あっという間に外の世界へと消えていった。
扉の隙間から見えるのは、家の明かりに少しだけ照らされた小さな畑と、閑静な住宅街。その向こうに夜の闇が沈んていた。
風呂場のドアが開く音がした。それから、洗面所の戸を開け、夫が顔を覗かせた。
「なにか話してた? 電話?」
その声に振り返る。
さすがに声が聞こえたのか。独り言にしては大きすぎたか。まだ髪も身体も濡れたままだ。
夫は知っている。
妻の知らない秘密を持つ優越感を。
「なんでもない」
そう言って、勝手口の鍵を締めた。
(たまにはこっちが優越感に浸ってやろう)
わたしはこっそりと笑みを浮かべたけれど、すぐに不安の中に迷い込んだ。
拐かした人たちが確かに帰るまで安心できない。
魔王に対して恐れている自分と、クソ真面目に不倫ではない、なんて言ったコビトに癒やされている自分と。その間で、心は静かに揺れ動いていた。
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