7.レモンティーの話

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7.レモンティーの話

 コビトは予告なしにやってくる。  一番下の子どもが昼寝をした。突然舞い降りた自由時間に呆然としているところに、コビトは現れた。  季節の変わり目によくあるで、子どもたちが代わる代わる熱を出した。そうなると他のことは二の次になる。  一段落して、ようやく落ち着いて買い物できたその日、コビトはまたカウンターの上に座っていた。  何か言う前に、わたしから話を始める。 「聞きたいことがあるんだけど」  挨拶さえも遮られてコビトは身構えた。わたしは気にしない。 「どうやって家に入っているの?」  前回、彼が来た次の日。  わたしは家に隙間がないか隅々調べた。  他人が、しかもコビトから人間の大きさになれるような存在が、知らずに家に入ってくるのは恐ろしい。次現れたら真っ先に聞こうと思っていた。 「ああ」  カウンターの上で立ち上がり、わたしを一瞥した。 「勝手に家に入って、申し訳ない」  そう言って頭を下げる。  ようやくその失礼に気づいたようだった。 「今日は、あなたの足につかまった」 「足?」 「買い物から帰ったとき、玄関のそばに潜んで。靴に乗ったあと、裾にしがみついていた」  なるほど。 「それは、気づきませんでした」  納得したのに悔しい気持ちになって、買ってきたものをさっさとしまう。 「それで、今日御来訪の用件は?」  わたしの質問に、コビトは改まって座り直す。 「庭を見せてほしい。いつがいい?」 「いつって?」  自由勝手に家に入ってくるくせに、時間を指定してきた。不思議に思って黙って見つめていると、コビトはクスクス笑いだした。 「あなたには隙がない」 「何もできないタイプの専業主婦なのに?」  専業主婦にも色々いる。  ひと括りにはできない。  でも、わたしは出来の悪い方であることは間違いなかった。 「あなたはいつも忙しい。今だってこの自由時間に何かしようとしている」  見透かされた気がした。  寝ている間にやっておきたいことがいくつかあって、どれを選択するか考えていたのだ。 「朝に来て」  答えはこれしかなかった。 「この前みたいに? ポストに乗って待てばいいか?」 「そう。午前5時」 「早いな」 「普通です」  朝だけが自分の時間だった。  するべきことを考えないわずかな時間。 (とりあえず、なにか飲もう。こんな時は紅茶だ)  落ち着かない気分のまま、湯呑にポットのお湯をドボドボ入れて、ティーパックを突っ込み、砂糖とミルクをぶっ込む。優雅さのかけらもない紅茶を淹れた。 「私もいただきたい」 コビトは面白そうにわたしの湯呑を覗き込む。 「紅茶を?」  ガサツ紅茶を? 「できればレモンティーがいい」  わたしは露骨に嫌な顔をする。よりによって、レモンティーなんて。 「贅沢言わないで」  そう言い捨ててやった。  我が家には、そんなに都合よくレモンはない。 「だいたい、どうやってあなたサイズのコップを用意するんですか」 「持っている」  そういうなり、腰から小さな銀のコップを取り出した。差し出したおもちゃみたいなコップだったけれど、いかにも丈夫そうで、キャンプ用にも見えた。 「承知しました」  受け取ると、さっと洗ってティースプーンでわたしの湯呑から紅茶を注ぎ、コビトに差し出す。  コビトは立ったまま啜る。 「甘すぎる」  コビトは不満げに言った。 「こんなものばかり飲んでいたら病気になる。せめてレモンティーにしよう」  このコビトがレモンティーを好きなだけじゃないか? 「余計なお世話です。それに、わたしはレモンティーは飲まない」 「嫌いなのか?」 「好きだった」  レモンティーには因縁がある。夫が嫌いだったのに、突然好きになった飲み物だ。 ーーレモンティーって、いいなと思って。  夫は頬を緩ませながら、何かに思いを馳せて言った。  しばらくして、わかったのだ。  レモンティーは、彼女が好きなんだ、と。  SNSというのは、とても便利だ。誰でも見ることができる。夫はそこにつらつらと思いをしたためている。彼女への熱い愛を。レモンティーの思い出を。  彼女にみつけてほしいのか、わかりやすい名前をつけていた。おかしなことに、わたしにもわかりやすい。  見たことのある写真は、これが夫であるという証拠として充分すぎるくらいだった。  その頃は腹が立ったから、わざとレモンティーばかり買ってきてみたりした。  夫がイライラしているのを、それ以上にイライラしながら無視をした。自分でも意味のわからない行動だ。  問い詰めなかったのは、SNSの中の夫が、あまりに幸せそうで、馬鹿らしかったから。  夫ではなく自分自身が馬鹿みたいだった。哀れで、気の毒で、極めてマヌケだった。 「ごめん」  突然、コビトが言って我に返る。 「そんなに嫌だとは思わなかった。軽口だった。飲むものは、あなたの自由だ」  わたしは首を振る。 「違う。違うよ」  わたしはどんな顔をしているだろう。  あの頃を思い出して泣くなんて思わなかった。  必死に育児をして、夫を気遣って、頑張って、その結果がこれだから。  そんな自分の存在を否定し、蔑むことで、今まで生きてこれたなんて。 「ごめん。ミルクティーでいいんだ。泣くな」  コビトはオロオロとカウンターを行ったり来たりした。それから、何か言おうとして、でもやっぱり黙ったり。しゃがんで、立って、しゃがんで、また立ち上がったりしている。わかりやすい動揺の仕方だ。 「だから違うって言ってるのに。ミルクティーを否定されたからって、いい大人が泣きませんよ」  あんまりちまちまと動くものだから、顔を拭いながら、わたしは笑っていた。 「急に泣くから」  コビトはヘタリと座り込む。 「ごめん。でも、やっぱり、もうミルクティーはやめる。ついでに、コーヒー牛乳も」  紅茶もコーヒーも、温かくして、底抜けに甘くしないと飲めなくなっていた。 「ストレス解消のために、激甘の飲み物を飲んでいただけ。悪い習慣になっていた」  コビトの一言で、わたしは目が覚めた。 「もう平気。健康のためにもやめる」 「そうか」  コビトがこぼした笑顔に、わたしもほほえみ返す。  誰かがいるというのは、心強いものなのかもしれない。友だちもいないから新鮮な心地だ。 (相手が魔王だとしてもね)  小さく笑ってから、ふと、不安が頭をよぎった。  わたしが緑川さんの家を探ろうとしたことを知ったら、コビトは怒るだろうか。  緑川さんは戻っただろうか。そして、隣の家に、この人は住んでいるのだろうか。まだわかっていない。  わたしは、見に行かずにはいられなかったのだ。 「では、帰ろう」  コビトはそう言って立ち上がる。小さな足裏は、小気味良くステップを踏んで、差し出した手のひらに乗っかった。わたしは勝手口を開け、コビトをゆっくり降ろす。 「それにしても、あなたは動じない」  伺うようにわたしを見上げた。 「この前の出来事があったのに」  この前、と言われ、すぐに思い出せない。コビトはもどかしげに、でも少し楽しそうに笑ってみせる。 「いいんだ、別に。また朝に会おう」  そう言ってコビトは外へと飛び出していった。 (この前、この前) 「あっ」  もしや、わたしを抱きしめたことだろうか。 (まさか)  そっと勝手口のドアを閉め、しばらく飲まないと決めた、甘ったるいミルクティーの残りを飲み干した。  湿った土の香りが、耳元当たりて蘇った気がした。  
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