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8、失恋の夜に 前
夜10時。夫から遅くなるという連絡が届いた。
(早く連絡してくれたら片付けが一度で済んだのに)
グチグチ言っても仕事だと言われてしまえば仕方ない。
わたしはポケットに手を突っ込んで小さな紙の感触を確かめる。
「5時はムリ、か」
今朝、ポストの上に見慣れない石が乗っていて、その下に小さな白い紙が敷かれていた。それは、「5時はムリ」と書かれたメモ用紙だった。多分コビトだろう。
(5時は早すぎたのか)
ポケットから取り出して、もう一度メモを見る。ちょっと丸い文字に少しだけ心の風通しが良くなった。
深呼吸をして、シンクに溜まった洗い物に取り掛かる。
洗い物は順調に進んでいく。子どもたちはもう眠って、邪魔するものは何もない。
ちょうど片付け終わった頃、勝手口を叩く音がした。
(きっとコビトだ)
迷わず勝手口を開けると、足元にちょこんとコビトが立っていた。
「玄関の灯りが電気がついていたから、まだ帰っていないと思って」
「そうとは限らないから気をつけて」
手の平を差し出してコビトを乗せると、カウンターの上まで運んだ。
コビトはいつもどおり、カウンターに立ったままなので、わたしはいただきもののみかんを置いた。
「座る?」
「みかんに?」
「椅子にいいのでは?」
「食べ物なのに?」
「瓶とか、箱とか、考えたけど、座り心地がいいかと思って」
「何故みかん。もう春なのに」
コビトはブツブツ言いながら腰掛ける。
「さて」
気を取り直したコビトが、炊飯器を洗っておうとしているのに話を始めた。
「手紙、見た?」
「見た」
「早すぎる」
「ごめん」
「毎日何時に起きている?」
「4時くらい」
「眠くならないのか?」
「なる」
わたしは力強く答える。
「何時に寝ているんだ?」
「子どもたちを寝かしつけながら、9時から10時まで寝る。それから夫の帰宅後夕飯の支度のため起きる。片付けなどをして12時に就寝」
「睡眠時間、短すぎやしないか?」
「どうせ起きちゃうから」
「起きちゃう? 自然にか?」
「そう。目が醒めて時計を見るとだいたい4時。歳かな」
笑ってみせたけれど、コビトは真顔のまま固まっていた。そんな悲観的ではないのに。
「早起きしてもぼーっとしているだけだし」
もう少し元気な頃は手の込んだ朝ごはんを作った。掃除したり、ストレッチしたり、そんなこともしていた。
「ぼんやりしているだけだから大変なことはないよ。た録画していたテレビ番組をみたり。子どもたちがいるとできないことをして、まあまあ幸せな時間だよ」
つまり自由時間だ。でも、コビトは納得しないのか、腕を組んで考え込んでしまった。
そんな深刻になるとは思わなかった。
「なにか飲みますか」
申し訳無くて、思いつきみたいに切り出すと、コビトはにやりと笑って、
「ビール、飲む?」
コビトが言った。
久しぶりにコビトのビールを勧めてきた。
「ビールね」
わたしはくるりと背を向け、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
「一緒に飲みます?」
コビトは人間のビールを飲むのだろうか。人間に化けているなら、飲んだことはあるかもしれない。
コビトは手荷物をまさぐると、黙って銀のコップを掲げた。
「お願い申し上げます」
わたしは小さ目のグラスにビールを注ぐと、前と同じくスプーンでコビトのコップにおすそ分けをした。
「では、いただきます」
コビトは乾杯のポーズを取り、ぐいぐいと飲んだ。遠慮がない。
それにしても、まさかコビトと飲むとは。人生はわからない。
「確かに5時は早いね」
「庭で草を愛でるなら、もう少し日が昇ってからがいい」
「それなら下の子が登園した後、午前中の10時なら庭にいるよ」
「そうか」
「今春休みだから二週間後からね」
コビトはうなずくと、空のコップをこちらに向けてビールを催促した。再びスプーンで掬う。
ゴクリと喉を鳴らして、コビトはビールを飲む。
それからフッと息をつき、何度かうなずいてから、
「寝たほうがいいと思う」
と、言った。
「身体に良くない。甘いものも寝不足もよろしくない」
「そうだね」
真剣に相づちを返し、わたしはビールを飲む。でも、身体にいいことなんて、したくなかった。
「前はもう少し気にしていたんだよ」
言い訳みたいだけど本当だった。
少しは気を遣っていた。体型も、健康も。
今だってどうでもいいわけではない。
でも、不思議と健康的なことをしたくない。
「何故気にしなくなった」
「何故? 面倒くさいからじゃない?」
考えたことなかった。
「長生きして、子どもたちが大人になるところを見たいのにね。でも、病気は怖いし健康でいたいよ」
「その割に、毒のように甘い飲み物を飲んで、睡眠時間を削る。それは夫のせいか?」
「どうかな」
違う気がしている。
「それより、小さな嫌なことが重なったことかな。本当に些細なことだけど」
思い出して、苦笑いが漏れた。
「近所の人に無視をされたり、幼稚園の役員で標的にされたり、道で会ったおばさんに嫌味を言われたり、公園で会った見知らぬ子どもに、子がキモいって言われたり。一つ一つは、大したことない。無視も標的も嫌味も悪口も、その時だけ。今はないから」
もう終わったことなのだ。
「嫌なことが、たまたま立て続けに起きた。それだけ。それなのに夫が帰ってきた時。わたしを見る目がすごい冷たいことに気づいて、シャッターが閉まった気がした。何もかも終わったような」
その時、心が壊れる音がしたのだ。
「そんなことで、何もかも嫌になるなんてね」
コビトは空っぽのコップを見つめていた。思い詰めたように。
「それは些細ではない。それに」
続けて、コップの中に語りかける。
「それに、その前に、もっと大きなことがあったのではないか?」
そして、わたしをゆっくりと見つめる。
「あなたは眠ったほうがいい。もっと大切にしてほしい。もっと怒ってほしいのかもしれない」
静かに、言葉を一つずつ落とすように、コビトは言った。
優しい言葉だった。
それは、あの日、わたしを包み込んだときと同じ。
純粋な友情。
会話や抱擁の後に、わたしは色恋など求めない。コビトは安心しているのかもしれない。同じだから。
コビトは荷物から何かを取り出した。銀色のミルク缶のようなものをカウンターに置く。
「これを、置いていく」
それはコビトのビールだった。
いらないと言おうとしたら、コビトはカウンターからこちらへ飛び降りた。
「飲む気になったら飲むといい。強要はしない。もしコビトになったら、沈丁花の下にうちへと続く道がある。来るといい」
コビトは目をそらさない。
「うちの場所は知っているな?」
瞬間、身体が固まった。それを見透かすみたいに、コビトは笑った。
「今夜は帰ろう」
その唇の歪みには底知れない、魔王の闇が潜んでいる。
わたしは黙ってうなずいた。
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