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8、失恋の夜に 中
コビトが帰っても、夫はなかなか帰ってこなかった。
もう明日になろうとしている。連絡がない。
普段は、0時00分になったら、連絡していた。安否確認だ。
今夜もそうなるだろう。
テレビから、昔よく耳にしていた曲が流れてきた。
(懐かしい)
まだ夫に恋をしていた頃。愚かな時代。自分のことばかりで、家のことも子どものことも手伝ってほしいと駄々をこねていた。頑張っているわたしをもっと認めて欲しかった。
夫が求めている妻は、それじゃない。
その当時。夫だって助けてほしかった。仕事でツラかったことや、同僚がひどい辞め方をして落ち込んでいたことも知らずに、ただ、自分が助けてもらうことだけを願っていた。あの頃。
夫は何でもしてくれるスーパーヒーローではなく、おんなじ人間なのに。
わたしは幼かった。
ふと、戸棚を見る。奥にはコビトのビールを隠してある。あの頃なら、飲んでいたかもしれない。
今は、夫一人を悪者にして、子どもを置いて、逃げ出したりはしない。
スマホを見る。
ランプが点滅している。
夫ではなく、昔勤めていた会社の先輩から連絡がきていた。
ーー元気?
ーー旦那さんと、どうなった?
夫のことを相談していた先輩だ。勤めていた頃も色々な相談をしてきて、信用できると思っていた。
実際は、相談内容を後輩たちにばら撒き、笑いものにしていた人だった。元上司が教えてくれた。
だから、未読のまま返事はしない。
このメッセージも先輩じゃないかもしれない。
先輩のスマホを使って、誰かが遊んでいるのかもしれない。
自分が悪くたって、今は誰かを信じることを休んでもいいじゃないか。そう思っている。
同時に、コビトはこの人たちとは違うとも思う。
(なにせ世界征服)
その響きに心躍ったりしている。もちろん、全てを信じるには、知らないことが多すぎる。
でも。きっとそれが調度良い。
テレビの中では1つの曲が終わり、次の、前奏が始まる。飽きずにラブソングを歌い出した。
眠ったほうがいい。そうコビトは言ったけれど。
身体は疲れていても起きてしまう。どうやったら安心して眠れるのだろう。忘れてしまった。
ご飯と洗濯と掃除と、幼稚園や学校のあれこれ、ぐずる子ども。上手くこなせるか。できないのではないか。不安に迫られて息が苦しくなる。
わかっている。
適度に手は抜いている。子どもにだって手伝ってもらっている。時間通りにできなくても、誰も責めやしない。深呼吸して、気分転換にゲームして、子どもに邪魔されて、一緒に遊んで、笑って。
それなのに、不安がいつも胸のどこかに住み着いている。どうしたらいい。
そんなことを考えているうちに、曲が終わって番組も終わった。
髪を切って前に進んだはずだ。それなのに、立ち止まっている。もどかしい。
ーーその前に、もっと大きなことがあったのではないか?
コビトの言うとおりかもしれない。
傷つけられたのに、壊れたのに、逃げていた。
何もかもを自分のせいにして。大きなヒビが入ったまま。スカシて、ごまかして。
そして、小さなことの積み重ねで粉々になった。
もう、壊れるものもないかもしれない。
玄関の鍵が開く音がした。
驚いて見に行くと、夫がいた。
「おかえり」
何とか言葉にするものの、立ち尽くしたまま動けなかった。戸惑いを隠せず、黙って夫の顔を見ていた。
夫は泣いていたのだ。
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