3.悔しいときは、

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「敬梧、あなたまさか、あの女の子と付き合ってるの?だからこんなところにいるの?」    ドアが閉まるやいなや、絢子が詰めよってきた。部屋のローテーブルに唐揚げとサラダを並べていた敬梧は、眉をひそめる。 「お母さん、そんな言い方しないで。それに慧さんは男のひとだよ」 「え?だって、どう見ても」  今日の慧は針金みたいなカチューシャで髪をまとめ、赤色のエプロン姿だった。「すぽんと被るだけのエプロンは楽だし、作業向きなんだよ」と言っていた。かわいいアップリケが付いているのは「子どもたちが喜んでくれるから」らしい。敬梧は前に見かけたときに、かわいいなと思ったのだ。 「保育士さんだから、普段からああいう感じなんだよ」 「そうなの?変な人ではないのね?でも、あんなふうに急に訪ねてくるなんて、非常識じゃない?」 「急に来たのはお母さんのほうじゃないか。だいたい、お父さんには言ってあるの?」 「子どもの暮らしぶりが気になるのは、母親なら当然でしょう」 「やっぱり、お父さんには言わずにきたんだね」  愛情が深すぎる人なのだろう、と母に対して思えるようになったのはいつだったか。  父の慎一郎は銀行員で、転勤が避けて通れない。夫を支え、心の弱い息子を心配する毎日は気苦労の絶えないものだったのかもしれない。  敬梧は、ひとり暮らしを始めた当初、部屋の静かさに、寂しさよりも驚きを感じた。家にいるときは、いつでも母親の声がしていたから。「具合はどう?」「今日は寒いからこちらの服にしなさい」「残さず食べるのよ」「髪が乾いてないわ」幼少の頃から、中学生、高校生へと成長してからもそれは変わらなかった。「学校はどう?」「お友だちは選んだほうがいいわ」その、盲愛とも思えるほど固執された環境から逃れるため、地方の大学を選んだのだ。  敬梧の声に、責められていると思ったのか、絢子が顔をそむける。 「お父さんは、野村のおじいちゃんたちと遊びに出かけたわ。あなたのことなんかどうでもいいんでしょう」  父親の実家は、祖父母も戸外でのレジャーが好きな家だ。幼い頃は敬梧も一緒だったが、そのたびに熱を出してしまい、いつしか行かなくなった。従弟が二人いるが、彼らはスポーツマンで明るい性格だ。みんなで釣りにいったり、キャンプをしたりと楽しそうにしており、そのことも絢子を苛立たせている。 「俺だってもう、世話が必要な子どもじゃない。自分でなんとかできる歳なんだよ」 「なんとかできていないから、あんな人が近づいてくるんじゃないの。こんなことなら、私たちの近くに暮らしなさい。転職先だってすぐに探してあげるから」 「俺の友だちを、そんなふうに言わないで!」 「敬梧?!」 「俺の……大切な友だちを、あんななんて言うなら帰ってほしい」 「あなた、こんな時間に帰れなんて、わざわざきてあげた私を追い返すの?」  絢子の頬が、怒りで紅潮している。両親が暮らす大きな町へは新幹線を使っても3時間はかかる。たどり着くころには深夜になってしまうだろう。敬梧は諦めて、ため息をついた。  母親との話し合いが不毛なことは、よくわかっている。 「明日の朝、俺が出勤前に駅まで送るから、それで帰ってほしい」    会話を打ち切るように、敬梧はローテーブルの前に座りこんだ。食欲はないが、慧が作ってくれた唐揚げの皿を引き寄せる。  おとな二人に十分な量は、敬梧と一緒に食べるつもりだったはずだ。すっかり冷めてしまったが外側は香ばしく、中はしっとりとしていた。 「うまいから、お母さんも食べなよ」    敬梧にうながされ、しぶしぶ箸をとり一口頬張った。「あら、二度揚げしてあるのかしら。おいしいわ」と驚いている。  敬梧は、呆れてしまい何も言えなかった。
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