1.知りたいときは、

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 買い物を終えた敬梧は、コンビニの駐車場で車のハンドルに顔を伏せた。  かろうじて声は出していないし、すぐに視線をそらしたからきっと大丈夫だ。そこまで考え、向こうはこちらのことなど覚えていないだろうと思い至った。地味な容姿が誰かの印象に残るなんてありえないのに、どきどきしていたなんて呆れる。3日間の自分に笑いがこみあげて、まるで憑き物が落ちるようにすっと心が凪いだ。  アパートに戻り所定のスペースへ車を入れると、新しい入居者のものなのか、隣に見慣れないSUV車が停まっていた。  横並びに5室、2階建てのアパートには1年前から住んでいるが、他の住人との交流はない。階段を上がり、一番奥の自室までに4つのドアがある、それだけ。  ひとり暮らしを始めたのは、大学進学時に母親が決めたワンルームマンションだった。就職し資金を貯めて、駐車場込みの物件に引っ越した。軽自動車も買った。新築の部屋も新車も、いまの自分には手が届かない。それを知れただけで引っ越してよかったと思う。  仕事はまだまだ半人前だが、25歳の男性にしては少し単調な毎日に、特に不満はない。    ただ、その平穏な生活が無味乾燥なものだとは、自宅のひとつ手前のドアから満開の花みたいな笑顔が飛びだしてくるまで気づけなかった。 「おかえりなさい!晩ごはんまだですよね?ご一緒にどうですか?」    まるで旧知の仲みたいに笑って、その人は言った。  敬梧の口から出てくるのは「えぇ」とか「まぁ」という音ばかり。はっきりと断ることもできず、うながされるまま折りたたみテーブルの前に座り、手には缶ビールを持っていた。 「ご挨拶が遅れましたが、隣に越してきた中嶋慧(さとい)です。はじめまして……ではないけど、よろしくお願いします。あ、この大男は中学からの友だちの斉木です。見た目ほど恐くないからね」  敬梧の缶にコツンと当ててからおいしそうにビールを飲んでいるのは、まぎれもなく『さとい先生』だ。そしてコンビニで一緒だった長身の男が、なぜか敬梧を睨みつけている。 「慧、初めてじゃないってどういうことだよ」 「園の子たちと公園までお散歩してさ、そこで会ったんだよね、えっと、名前……」 「の、野村です」  まさか覚えられていたなんて。慧がまっすぐに視線を合わせてきて、敬梧は手にした缶を落としそうになる。ぱっちりとした瞳に問いかけられ、酔ったみたいに顔が火照っていた。 「ベンチに座ってた野村さんに、ちーちゃんっていう子が近寄ってて驚いたの。すごく人見知りさんだから珍しくて。そしたら同じアパートの人だった」 「ふーん、公園ねぇ」 「え、知って?」 「僕、3月最後の日曜日に越してきたんだけど、そのとき駐車場ですれ違ってるの。野村さん大急ぎで出かけてたよ。気づいてない?」 「す、すみません」  前夜に、大学時代からの親友である青田と飲んで寝坊した朝のことだ。あれを見られていたのか。 「夕方に挨拶しようと思ったけどまだ帰ってなくて。僕も忙しくてそのままにしちゃってたから、今日、コンビニで会えてよかった」 「それは……どうも」  敬梧はますます顔を赤らめながら、慧が手渡してくれたチキンのラップサンドにかじりついた。斉木も1本目のビールを空にして、ポーク玉子おにぎりをほおばっている。慧はカリカリベーコンをのせたサラダを皿に取り分け、缶ビールのおかわりを出そうと立ちあがった。 「念のために言っとくけど、慧は男だからな」  斉木がタイミングを待っていたかのように小声で言った。 「は?」投げられた言葉の意図が読めず、敬梧は喉をつまらせてむせ返る。 「見惚れてただろ、コンビニで。バレてるからな」  ひそめているせいでやたらと威圧感のある声色だが、目がニヤッと笑っている。 「こら、友だちをいじめるなよ」  ビールのほかにチーズやドレッシングを手に持った慧もなにやら楽しそうだ。 「と、とも?」 「なんだ、不服か?」  友だちって、こんなにも簡単になれるものだっけ。目に涙を浮かべたまま考えても、敬梧に正解はわからなかった。  
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