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絢は、剣から離れなかった。
離れる暇もなかった、というのが正しいかもしれない。妖を退治した剣士として名が広まり、仕事が続々と舞いこむようになったのだ。
護身術として娘に剣を教えてほしい、との依頼も多かった。気乗りせず稽古にやってきた令嬢も、絢の刀さばきに惚れぼれする。
「まあ、華麗ですこと! 剣と一体になっているみたい」
無邪気に声を立てられ、絢は愛刀にふれて微笑んだ。
「長く使っていますので、よくなじんでいます。身内のようなものですよ」
「それだけ技量があると、苦労も大きいのでしょうね」
「いえ、そのようなことは……」
答えかけた瞳が、ふと遠くを見る。道場の窓が切りとる景色に桜の影はない。
「時に、悲しくもあります」
ぜひうちのお抱え剣士に、とあちこちから誘われたが、彼女はひとつの土地にとどまることはなかった。何かを求めるようにさすらい、春が来るころになると北へむかう。爛漫に咲きほこる花の中にいるのは耐えられなかった。
数年が過ぎ、冬が終わろうかというある日。絢は北方の里を歩いていた。
「失礼。引きとりにまいりました」
小屋の奥に声をかけ、戸をくぐる。鍛冶の作業場には火が焚かれ、外の寒さをかき消している。
「ああ、あんたか」
三十がらみの鍛冶屋がのそりと立ちあがった。愛想笑いもなく、絢があずけていた刀を差し出す。
「研ぎまで終わってる。たしかめてくれ」
絢はうなずいて、刃を火の明かりにあてて検分した。この前の仕事でできたひどい刃こぼれが嘘のように直っている。自然と笑みが浮かぶ。
「ありがとう。これでまた戦える」
刀を鞘におさめようとすると、鍛冶屋が低い声で尋ねた。
「何て刀だ」
「由来は知りません。古道具屋で手に入れたもので……」
「そいつは何者だって聞いたんだ」
「えっ?」
心臓が鳴り、身体が固まる。
鍛冶屋は、鞘からわずかにのぞく白刃にじっと視線をそそいだ。
「俺には見えた。真っ赤に熱した刀身を打ったとき、火花にかわって花びらが舞った」
「花……」
「さくら、白い桜だ。すぐに消えちまったが、目に焼きついた。あんたの家系とゆかりでもあるのか」
絢はとっさに首を横にふった。
「ない。桜は嫌い」
「そうか」
鍛冶屋は口をつぐむ。絢は急いで戸口へむかいながら、乱れた鼓動をなだめた。
はやく外へ。
進みつづけていれば、記憶は遠ざかる。花が散った春の夜から逃げきれる──
小屋から一歩踏み出した瞬間、声が追いついた。
「桜は、あんたを想ってるみたいだぜ」
息がとまった。
刀を握る手に力がはいる。大嫌いな花の香が彼女をつつむ。伝えられなかった最期の言葉をのせて。
四百の年月を生き。
愛したのは、お前だけ。
「……白桜」
弱い声で名前を呼んだ。
忘れようとしていた彼の太刀筋、まなざし、笑顔が一斉に咲く。もう絢は進むことなどできなかった。刀を抱きしめた拍子に、涙が頬を滑りおちた。
鍛冶屋は何も言わず立っている。外から入ってくる風は冷たいが、それをあたためる日ざしがあった。
ああ大丈夫だ、と彼は思う。
冬のうちにうしなわれたものがどれほど大きくても、春はめぐってくる。
「きっと、そうなるさ」
鍛冶師はまぶしさに目を細め、剣士の震える背中を見守った。
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