白桜刀

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 はずむ声を、空気のゆらぎがさえぎった。 「あっ」 とふりむいたときにはもう、しなやかな手が彼女の頬にふれていた。顎の線を指がとらえ、わずかに上向かせる。  やわらかな逆光の中、異界から出現した青年が彼女を見つめていた。  淡く色づいた唇がひらき、問う。 「わたしの手が刃であったら?」  長くおろした黒髪、透けるような肌。静かな瞳に射抜かれ、絢は一瞬言葉をうしなう。  私はどうしたんだろう。去年だったら、こんなときでも軽口を返せた。  動揺を隠し、怒ったように青年の肩を押す。 「不意うちなんて、白桜らしくない」 「油断したな、絢」  白桜は笑って身をはなす。  薄紅に白を織りこんだ衣が揺れ、絢の鼻先を芳香がくすぐった。心地よさに閉じそうになったまぶたを反射的に戻し、腰の刀へ手を伸ばす。 「立ち合い、してくれる?」 「いいだろう。誘ったからには落胆させるなよ」  おだやかに答える彼の手にも、いつの間にか一振りの刀がにぎられている。距離をとってむかいあうと、白桜の笑みの色が変わった。  その名のとおり、彼は桜の精霊だ。  毎年春先になると顔を出し、ひと月ふた月でいなくなる。  出会ったのは絢が八つのとき。故郷の里の、満開の桜の下だった。泣きながら木刀をふるっていると、唐突に涼しげな声がした。 「涙があっては、敵も見えまい」  幼い絢は飛びあがってふり返る。  瞬間的にわいた恐怖は、幹にもたれている白桜と目があうと、好奇心へ変わった。 「あなた、なに?」 「誰、と尋ねないのか。勘のいい子だ」  苦笑した白桜が身を起こせば、手には抜き身の刃が光っている。絢の顔が憧れで晴れた。 「あなたは剣士なの!」 「残念ながらただの桜だ。しかし剣は好きだよ」  彼はふわりと首をかしげる。 「なぜ泣いていた」 「……負けたから。となり村のいちばん強い子に」  少女は唇をかむ。  本当は、負けたあとで家族から投げつけられた言葉のせいだ。 「またケンカか? まったく恥ずかしいやつだ」 「おとなしくしないと、お嫁のもらい手がなくなるわよ。あんたはただでさえ不器量なんだから」  絢は身をちぢめて傷の手当をした。  もっと修行をつんで、人を守れる剣士になりたい──  そんな願いを持つ女の子はどこにもいない。けれど、ほかにどう生きたらいいのかわからない。はみ出した自分が悲しくて、どこにいても苦しかった。  桜の精は、語られなかった心が見えるかのように言った。 「お前は強くなれる」  はじめて気持ちを受けとめられ、絢はもっと泣きたくなった。必死に涙をこらえていると、青年の手がそっと頭をなでた。 「わたしは白桜。お前の名は?」 「絢……」 「絢の剣は、誰にも斬れないものを斬れよう。おいで、多少であれば技を教えてやれる」  彼の微笑みのそばに刃が光っていて、絢はどちらも美しく思った。  それから十年あまり。剣の道を選んだ彼女に、白桜は寄り添いつづけている。  手痛い失敗をしたり、穴底に突き落とされるような悔しい思いをしたとき、絢は彼の面影をささえにして前に進むことができた。どうにか剣士を名乗れるようになると、ふたりの稽古はなくなったが、たまに今日のように相手をしてくれる。  彼らは気がすむまで剣を打ちあい、木陰に腰をおろした。  絢はゆるんだ髪を束ねなおしつつ報告する。口にくわえた髪紐がもごもご揺れた。 「あのね、あたらしいしおとは……」 「話すか結うか。どちらかにしなさい」  ぴしゃりと言われた絢は大いそぎで髪をまとめ、上気した頬を彼にむけた。 「新しい仕事が決まったの。領主さまの依頼なんて夢みたい、しっかりやらなきゃ」  よろこんでくれると思ったが、話を聞いた白桜は眉をひそめた。 「神隠しの妖、正体は不明…… 危うくはないか、絢」  陰をおびた表情にどきりとする。絢は、困惑を笑顔で追いはらおうとした。 「どんな仕事も危ないよ。けど、何とかやってこれた。今回だって大丈夫」 「危険の毛色が異なると言っているのだ。それに先ほど、わたしに隙をつかれたばかりではないか」 「あれは、あなただったから」  思わず返した答えは、口をはなれたとたんに重みを増した。しなやかな指の感触が頬によみがえり、絢はあわててつけくわえる。 「勘は前より冴えてると思うの。あなたの気配、冬のあいだも感じたよ」 「おや、わたしはずっとまどろんでいたぞ。お前にまとわりついた覚えはないのだが」 「そう? たしかに桜の香りがしたんだけど…… 白桜の仲間だったのかな、声をかけてみればよかった」  白桜は、出自にまつわる記憶がぽっかり欠けている。  自分がどこからやってきて、なぜここにいるのか、ずっと答えを探してさまよっていた。幼い絢に出会ったのも、あてのない旅の最中だった。  同じ桜の眷属を見つけるのは彼の悲願だ。  が、絢の話には釈然とせず首をかしげる。 「冬に動くものとなると、わたしの一族ではなさそうだ」 「それとも、気のせいだったのかな」  絢は、雪の朝にただよった春の香りを思い返す。やさしくひそやかで、凍えた肩をつかの間に抱いてくれた。しあわせな夢だったなら、それでかまわない。  白桜は、目をふせた絢をしげしげと見る。 「なるほど、恋しさゆえに香る幻か。それほどわたしに焦がれたか?」 「別に。今すぐ夏になってくれてもいいよ」 「再会したその日に消えろと言う。剣士らしい切り返しだ」  彼は楽しそうに笑った。  陽だまりの中に座る白桜は、花びらよりなお薄い磁器、そんな佇まいをしている。  出会ったときから、絢は「きれいだな」と思っていた。  しかし、言葉にこもる想いは、ゆるやかな関係の変化とともに形を変えていた。剣の師匠から旅の仲間へ。旅をつづけて、春だけに会える友人へ。  そして、その次は?  強くあたたかい風が吹き、白桜の髪が宙を舞った。ゆるやかに波打つひと筋が絢の肩をかすめ、胸の奥がぎゅっと絞られた。  彼は今、本当にすぐそばにいる。ふれてみたいと絢は思う。けれど手が届いた瞬間に消えてしまうようでもあって、数秒先の未来が怖い。  すると、白桜が低くささやいた。 「領主の依頼、どうしても受けねばならないか」  一気に現実へ引き戻され、絢は驚いて顔をあげる。 「もちろん! 私が断ったら、誰がお嬢さまを守るの?」 「あまり気負うな。剣士はお前だけではない」  絢の目がハッと見開かれた。すぐれた剣士がいくらでもいるのは理解している。けれど、彼だけにはそう言ってほしくなかった。  衝動的に立ちあがる。白桜の手が思いがけない強さで肩をつかんだ。 「悪い予感がする。考えなおせ」 「予感って何? どんなことが起こるっていうの」 「見えてこないのだ、しかし……」  白桜はもどかしげに首をふる。なぜこんなに気にかかるのかうまく説明できず、彼自身もとまどっていた。  切実な瞳が絢を射る。 「どうしても受けるのなら、わたしも行く」  絢はふたたび動揺に襲われた。  仕事に手を貸す?  私の力を信じてくれないんだ。白桜に認めてほしくて努力してきたのに…… 「やめて。助けは必要ない」  顔をそむけて歩き出す。白桜は追ってこなかった。  林を抜けるときにふり返ってみると、彼は花のない枝の下にうつむいて立ち、小さく脆く見えた。
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