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「それでは絢さま、明朝までよろしくお願いいたします」
「はい、おまかせください」
領主屋敷の女中が部屋を出ていき、絢は行灯の横に片膝をついた。いつでも抜けるよう刀に手を添え、神経を研ぎ澄ます。
きらびやかなついたてのむこうに、令嬢が眠っている。ひな鳥のように無垢な少女で、絢はひと目見て「守られるべき人だ」と感じた。
時が進み、屋敷じゅうの音が絶える。
白桜のことは頭から追い出そうとした。しかし、
「わたしも行く」
と言った彼の面影が何度もちらつく。
追いつめられたような声音、心細そうな姿。あんな白桜は今日まで見たことがなかった。
本当に、何かが起こる?
戦いよりも危険なものがあるとしたら……
積みあげた不安が崩れかけた、そのとき。
視界の一端で影が動いた。
絢はハッと背すじを伸ばす。ついたての奥で、あでやかな寝間着姿の令嬢が身を起こしていた。
「お嬢さま、どうなさいましたか」
「花が……」
虚ろなまなざしが絢の顔の上を通りすぎる。令嬢はうっとりと天井を見あげてつぶやいた。
「ほら、花よ。何て綺麗」
絢は、ぞっとなって少女の肩を揺さぶった。
「しっかりしてください。ここに花などありません」
「いいえ、私を呼んでいる。咲いているの、そこに!」
小さな手が前方をさす。
ふり返った絢は、虚空から幻の花が湧き出す瞬間を見た。小さな五弁花が次々とはじけ、咲き誇る。
絢は息を飲んだ。
「これは…… 桜の妖!?」
白桜の顔が思い浮かび、ほんの少しためらいが生まれる。急いで刀を薙ぎ払ったときには、座敷が桜の房で満ちていた。斬り捨てられた花が嵐になり、渦をまいて襲いかかる。
令嬢がうさぎのように駆け抜け、その中心へと飛びこんだ。
「お嬢さま!」
絢は嵐を切りひらく。
とたんに景色が塗り変わった。天井や壁が消え、月のない夜空が頭上に広がる。
そこは妖樹の巣だった。
巨大な枝垂れ桜が、紫の空に枝を張っている。
領主令嬢は、滝のような花の中でぐったりと目を閉じていた。彼女だけではなく、神隠しで失踪した少女たち全員が絡めとられ、古木に精気を吸われている。
美しく忌まわしい光景に飲まれかけた絢だが、口を引き結んで刀をにぎった。
ひとり残らず助けてみせる。
力強く踏みきり、幾重にもかさなる枝を斬り捨てていく。だが順調なのは初めだけで、令嬢の姿は見えているのに、進めば進むほど遠くなっていく。
妖の桜は、尽きることを拒む永遠の春だった。絢の視界が桜色にかすむ。めまいがして足場が揺れた。
そのとき。もう一本の刃が、桜の檻を裂いた。
「絢!」
凛々しい声と清涼な風が吹きぬける。
袖をひらめかせあらわれた白桜を見て、絢の中にたくさんの感情が満ちた。声が震える。
「きてくれたの」
「ああ、お前の邪魔をしに」
彼は唇の端をあげ、うごめく花のかたまりへむかっていく。気力を取り戻した絢もあとにつづいた。
幻影に惑わされず剣をふり、ひとりめの少女へたどりつく。身体に食い入った枝を引きはがすと、彼女は目をあけた。
「ここは、どこ……?」
「よかった。もう安全だよ」
絢が微笑むと、少女もホッと笑みを返す。その姿が薄くなって消えたが、もとの場所へ帰ったのだとわかった。
ふたりは次々と少女を救い出す。襲ってくる花を退け、かいくぐり、残すは領主令嬢だけだ。
しかし、最後の花は堅牢だった。
何度も刀をはじきかえされ、絢はいったんうしろに下がる。息があがり汗が流れた。
「剣が通らない。あれが本体じゃないっていうこと?」
「とはいえ、ほかに標的は……」
白桜があたりを見わたす。広い野原は紫の闇夜に溶け、目につくものはない。
やはり桜だ。
彼ははるか高い樹上を見あげ、ふりそそぐ花をなぞる。時に根を張る妖しの桜。人を食らう幽玄の樹に、嫌悪と同じくらいのなつかしさを覚えた。
「そうか。わたしは……」
過去を隠していた霧が晴れ、疑問がとけていく。
長いあいだ探していた己の出自を、今見つけた。
「このわたしが、最後の一枝」
長い黒髪から色が抜け、銀のかがやきを帯びる。瞳は淡い桜の色に。本来の姿を取りもどした彼を見て、絢の血の気がひいた。
「そんな。そんなことって……」
「絢、おいで。わたしとともに、ここにいてくれ」
彼はこの上なく甘く微笑む。絢の身体が震えた。何もかも投げうって、愛しい相手の胸に飛びこんでしまいたかった。
だが彼女は剣士だった。
彼の背後に、助けを求める弱き者がいる。絢が蒼白になりながら剣をかまえると、白桜も鏡のように刃を光らせた。
「それでこそ絢だ」
端正な笑みに、寂しさとうれしさが交差する。
スッと表情が消え、それを合図にしてふたりの剣がぶつかった。
上段、下段に走る切っ先。息もつかせぬ激しい攻勢が花吹雪を誘う。
絶望の次に恐怖が絢を襲った。白桜を負かしたことは一度もない。こんな状況で勝てるはずがない!
弱気な彼女を奮い立たせるのもまた、刃を交える白桜だった。出会った日から大切に抱きつづけた、あの言葉。
“お前は強くなれる。
絢の剣は、誰にも斬れないものを斬れよう”
あなたはどこかで知っていた。
誰かに殺してほしかった。
私に剣をさずけて、私の恋を奪った。
頭を空にして、二本の太刀に集中する。髪がほどけても、傷を負って血が流れても、絢は戦いつづけた。
肉薄する刃。たがいの面前に差しだす命の輝き。
それはいかなる紅よりも鮮やかに彼女をいろどり、呪われた桜をかきたてる。白桜はその美しさの虜となり、ひたすら絢を求めた。
狂おしい恋を断ち切ったのは、絢の無心の一刀だった。
腕から首へ、慈しみ撫でるように。
白桜がふわりと動きをとめる。衣が赤く染まり、手から刀が落ちた。
「あ……」
絢が呆然と声をもらす。何が起きたのか理解する前に、彼の身体がぐらっとかたむいた。とっさに抱きとめ、ひとつになって座りこむ。
「白桜!」
「これでいい。お前は、わたしを、解き放ってくれた」
彼は苦しい息の下で笑う。
絢は子供のようにかぶりをふる。誰が救われようと、こんなことはしたくなかった。
あふれ出る熱い涙を、妖の瞳がやさしく見つめる。
「四百年を生き、数多の人間を得た。しかし……」
濡れた頬に手を伸ばす。
ふれる寸前、力が抜けた。絢がその手を握ったとき、彼の目はすでに閉じていた。
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